home>キリスト教入門>カテキズムを読もう>第2編 キリスト教の神秘を祝う>第2部>第89回 過越の会食
カテキズムを読もう
第89回 過越の会食
6 過越の会食
ミサ(感謝の祭儀)は、イエス・キリストが十字架上でご自分のいのちを、いけにえとして私たちのために、ささげられたことを記念するものです。しかし、同時に、主キリストのからだと血という聖体を拝領(コムニオ)する「過越の会食」でもあります。
教会の祭壇は、私たち信者のただ中に現存されるキリストを象徴するものです。祭壇は、いけにえの祭壇であると同時に、主の食卓でもあります。ですから、祭壇は、私たちの和解のためにささげられたいけにえとして、また、私たちに与えられる天の糧として、私たち信者のただ中に現存されるキリストを象徴しているのです。
「皆、これを取って食べなさい」---聖体拝領
キリストは、私たちに「皆、これを取って食べなさい」と、ご自分の体を差し出されます。このキリストの招きに応えるためには、ふさわしい心の準備をする必要があります。
聖パウロは、コリントの信者たちに、聖体を拝領する前には良心の糾明をするように、勧めています(コリント1 11.27)。
良心の糾明をし、自分が大罪を犯していると意識した人は、聖体を拝領する前に、ゆるしの秘跡を受けなければなりません。聖体の秘跡のすばらしさ、偉大さは、いくら表現したとしても、言い尽くすことはできません。ただ、イエスに病気で苦しむ自分の部下へのいやしを願った百人隊長のように、信仰を込めて言う以外にはありません。
「主よ、わたしはあなたをお迎えするような者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの魂はいやされます」と。
「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧です。あなたをおいて誰のところにいきましょう」。
これは、今、私たちが聖体拝領の前に唱える信仰告白の言葉です。心をこめて、信仰と祈りの心をもって、唱えましょう。
教会は信者である私たちに、主日、祝祭日にミサにあずかるたびに、さらにもっと頻繁に、毎日でも聖体を拝領することを切に求めています。キリストは、パンの形態の中においても、ぶどう酒の形態の中においても現存しておられます。ですから、パンの形態だけで聖体拝領したとしても、パンとぶどう酒の両方の形態で拝領するとしても、いただく恵みは同じです。
日本に住んでいる私たちが参加しているミサの典礼様式は、ローマ典礼と呼ばれるものですが、この様式においては、司牧上の理由からパンの形態だけでの聖体拝領が行われるのが普通です。しかし、「しるし」の観点から見た場合、両形態による聖体拝領のほうが、より充実した形式を備えていると言えるでしょう。東方典礼においては、両形態での拝領が通常の形態になっています。
典礼は義務の行使のために参加するものではありません。義務は、信者の最低限を示すものですから、義務だけを守るという典礼生活は、望ましいものではありません。しかし、ここに、義務的なこととして、2、3のことを挙げておきましょう。
聖体拝領の回数について---
少なくとも年に一度、できれば復活祭の時期に、ゆるしの秘跡を受け、聖体を拝領することが決められています。
聖体を拝領する前に守るべきこと---
聖体拝領前の1時間からは、食物と飲み物を控えることが決められています。これは、私たちのうちに来られる、主キリストへ崇敬を表すためです。しかし、水、クスリの必要性がある人は、この限りではありません。また、病人の方も同様です。
1日に2回拝領できるのでしょうか---
すでに、ミサに参加し、聖体を拝領している人でも、同じ日に参加した、別のミサに限って聖体を拝領することができます。これは、たとえば、当日の典礼で決められたミサ典礼に参加した信者が、葬儀ミサに参加した場合、教会50周年の祝賀ミサに参加した場合、司祭の叙階式ミサに参加した場合などのことを指しています。