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第121回 家庭教会
夫婦愛の忠実–––
夫婦の愛は、その本性から変わらない忠実を要求するものです。これは、夫婦が相互に自分を与え合う結果として表れるものです。愛というものは、決定的であるはずのものです。
これは、神がご自分と交わされた契約に忠実であること、また、キリストがご自分の教会に対して忠実であられることに拠っています。結婚の秘跡によって、夫婦はこの神とキリストの忠実さを映し出し、世にあかしすることができるように恵みの力が与えられるのです。
神は、私たちをいつも忠実に、変わらぬ愛をもって愛してくださっています。結婚の秘跡に強められた夫婦も、自分たちの忠実な愛をとおして、この神の人間への愛をあかしするのです。このような夫婦に対し、教会共同体は感謝と支援をおしまないのです。しかし、さまざまな理由から別居せざるをえない夫婦がいるのも事実です。カトリック教会は、このような別居を認めています。
別居していたとしても、神のみ前では夫婦であることに変わりがありません。ですから、他の人と結婚することはできません。彼らにとっていちばんよい解決策は、可能性を求め和解することです。
カトリック信者であっても、民法上の離婚に頼り、民法上の再婚を行う人々もいます。教会は、マルコ福音書10.11~12に従って、最初の結婚が有効である場合、その再婚を有効とは認めません。従って、この状態にある人々は、聖体を拝領することができません。
ゆるしの秘跡によってゆるしが与えられるのは、神との契約であり、神との忠実さのしるしである結婚を破ったことを、本人が心から痛悔し、禁欲生活を送る人々に対して与えられます。
このような状況にありながらも、子どもたちをキリスト教的に育てることを望むキリスト者もいます。彼らに対して、司祭、信徒を含む教会共同体は、温かい配慮を示さなければなりません。
子どもの出産–––
婚姻の制度、また夫婦の愛の栄冠として、子どもの出産とその教育があります。夫婦の愛の実りは、両親が子どもたちに伝える倫理的、精神的、超自然的生命の実りにまで及びます。両親は、子どもたちにとって、まず最初の教育者です。この意味でも、夫婦の基本的な務めは、そのいのちに奉仕することであると言えます。
しかし、残念なことに、神から子どもが与えられない夫婦もいます。彼らもキリスト者として、意義ある夫婦生活を送ることができるのは、当然のことです。このような夫婦の結婚生活も、お互いの愛、受容、奉仕の実りを結ぶ輝かしいものとなりえます。
6 家庭教会
イエスを中心としたマリアとヨセフの送られた家庭生活は、どのようなものだったでしょうか。これは、神がイエスにこの地上での生活をはじめるに当たって、望まれた生活でした。初代教会も、その核となったのは、信者の家族でした。この家族が、信仰を持っていない人々の間で、キリスト教生活の拠点となっていたのです。
第2バチカン公会議は、信者の家族を「家庭教会」と呼びました。ヨハネ・パウロ2世教皇も、家庭を大切にされ、しばしば「教会の最小単位は家庭です」とおっしゃっていました。この家庭教会において、子どもたちの司祭召命や修道召命、また個々の召命が育てられるのです。
この家庭は、信者の共通祭司職と呼ばれる、「諸秘跡の拝受、祈り、感謝、聖なる生活のあかし、自己放棄、行動的な愛」を行うことのできる最適な場です。ですから、家庭は「キリスト教的生活の最初の学校」であり、「豊かな人間形成の学校」です。この家庭で、私たちは祈りや、神を愛すること、忍耐力、兄弟愛、寛容さ、仕事の喜び、ゆるしあうこと、などを学んでいくのです。
そのほか、独身生活を送る多くの人たちもいます。彼らは、普通の家庭を持たない人々です。彼らに、教会、特に司牧者は温かい配慮を示さなければなりません。「家庭教会」としても、大きな家族としての「教会」も、これらの人々に扉を開かなければなりません。教会は、すべての人にとって、家庭であり、家族なのです。
今回で、結婚の秘跡についてのお話は終わります。次回からは準秘跡などについてお話をしたいと思います。