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第130回 自由と責任
第3項 自由と責任
私たちは、神によって自由をもつ人間として創造されました。この自由とは、理性をもち、自主性と自分に行為の支配力を備えているということです。ですから、私たちは自由に自分で判断し、行動します。これは、人間が進んで、神を求め、自由に神に結ばれて、完全な幸福を得ることを、神がお望みになっておられるからなのです。
1 自由と責任
私たちは、時々、「自由」を「自分勝手にできること」と勘違いしますが、自由とはそういうものではありません。自由とは、行うか行わないか、これをするか・あれをするかを決める人間の理性と意志に根ざした能力です。
この能力は、人間一人ひとりに神から与えられているものです。この能力によって、私たちは自分の行動を自由に決定しているのです。
ですから、私たちのもっている自由の能力をどう使うかによって、私たちは人間的成長を遂げることもできますし、成熟にも導かれるのです。つまり、私たちは、善か悪かのどちらかを選択する可能性をもって生きているのです。そして、この状態は、私たちが、究極的に神と完全に結ばれるまで続くのです。
人間は、善を選び、善を行うほど、自由になっていきます。逆に、悪を選ぶことは、自由の能力を濫用することになり、悪を選べば選ぶほど、人間は罪の奴隷となっていくのです。
人間は自由ですから、自分が自由意志によって行ったことについては、その人に責任があります。
その行為にどれだけの責任があるのか、という行為の責任性は、無知、不注意、暴力、恐れ、習慣、過激な感情、その他の心理的・社会的要因によって、減じられることもあり得ますし、まったく無くなることさえあり得ます。しかし、直接に意図された行為は、すべてそれを行った人の責任です。
自由は、私たちの人間関係の中で行使されます。私たち人間は、神にかたどって造られていますから、自由で責任ある人間として認められるべきだ、という権利をもっています。これは生まれながらにもっている権利です。ですから、私たちは、一人ひとりのこの権利を尊重する義務があるのです。
自由を行使する権利、その中でも特に、倫理的・宗教的な事柄に関する権利は、人格の尊厳と切り離すことができない大切なものです。
この権利は、非常に大切なものですから、実定法によって認められていなければなりませんし、保護されなければならないものです。