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第131回 救いの営みにおける人間の自由
2 救いの営みにおける人間の自由
自由と罪–––
神は、わたしたち人間に、「自由」という宝物を与えてくださいましたが、その自由は、何をしてもよいという自由ではありません。自由には、一定の限度があります。そして、その自由を使うとき、誤りやすいことも事実です。
最初に造られた人間、アダムとイブが、この自由を濫用し罪を犯したことは、「原罪」という言葉で、以前お話いたしましたね。彼らは、神様ではなく、自分を選んだと言っていいかもしれません。この最初の失敗から次々に、多くの失敗が生み出され、わたしたち人間の歴史を見るとき、その初めから現代に至るまで、人間の自由の濫用の結果、多くの不幸が生まれたことを物語っています。
自由を危険に陥れるもの–––
自由を正しく用いようとすれば、経済的・政治的・文化的条件が必要ですが、しばしばこの条件は、無分別や不正義などによって、無視され、破られているのは残念なことです。
人間が倫理や道徳律に背くとき、自分自身の自由を損なうのですが、それだけではなく、人間同士の兄弟姉妹関係を破り、神の真理に背くことになるのです。
解放と救い–––
自由の濫用によって、罪に陥っていた人間を救うために、キリストはご自分が十字架に釘づけられ、死に、葬られ、復活されることによって、すべての人の救いを獲得してくださいました。こうして、わたしたちはキリストが自由を取り戻してくださったことにより、今、キリストの自由を生きているのです。
自由と恵み–––
わたしたちの考える自由ということは、キリストの恵みと競合することがあるのでしょうか。わたしたちの考えている自由が、神の真理、善、そして神のみ旨と合っているならば、競合することはありえません。
わたしたちが、祈りやその他のことで、神の恵みの働きかけに素直に従えば従うほど、わたしたちの内的自由は増していきます。さらに、世界の動きや外部の圧力などに関して試練に遭うときも、自由の確信は強くなっていきます。このために、特に働いてくださるのは、聖霊です。キリストの愛である聖霊は、わたしたちの霊的自由を育んでくださり、わたしたちを教会と世の中におけるご自分の協力者としてくださいます。
最後に、「要約」がつけられています。「自由」の項目を復習する意味でも、「要約」にぜひ目をとおしてください。