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第134回 情熱の倫理性


 

第5項 情熱

 
1 情熱

ここで用いる「情熱」という言葉は、キリスト教の伝統的な用語の一つです。

感情や情熱は、人間の感性の動きを表しています。わたしたちは何かを見て、それがよいか悪いかを瞬間的に感じたり、想像したりします。この感情によって、わたしたちは、ではこのことをしようとか、このことをやめよう、と心に決めるのです。

情熱は、人間がもっている心の自然的な構成要素です。これは、わたしたちの感覚的生活と精神生活を結び付ける大切なものです。

キリストは、人間の心が、情熱の動きを生み出す源だと見なしておられます。

情熱には、いろいろのものがありますが、一番基本的なものは「愛情」です。愛情は、善いものが欠けている場合、その善いものへの渇望と、それを得たいという希望を起こさせます。望んだ善いものを得た場合、その人は喜びと快さを感じとるのです。

「愛するとは、その人の善を望むことです」と、トマス・アクイナスは『神学大全』の中に書いています。他のすべての感情は、この根本的な人間の心の動きが出発点となっているものです。

 
2 情熱と倫理生活

情熱は、それ自体、よいものでも悪いものでもありません。ですから、この情熱が倫理性を帯びるのは、実際に、理性や意志に左右されるときです。

情熱が倫理的によいものと言えるのは、情熱が理性によってコントロールされたときです。また、人間の倫理性の高さや聖性の高さは、心情が強いから高いというわけではありません。心情は、感情の尽きない宝庫です。

情熱が倫理的によいものであるといえるのは、その情熱がよい行いをするのに役立つときです。正しい意志は、感性の動きを受け入れて、それを善と至福とに秩序づけてくれます。情動や心情は徳の一要素となり得ますが、それがゆがめられると、悪習の一要素ともなりえます。

イエスのご受難を見るとよくわかることですが、聖霊ご自身が、わたしたちを促し、わたしたちの苦しみや恐れ、悲しみを含め、わたしたちのすべての人間的感情は、キリストにおいて完成されるのです。

倫理的完全さは、意志だけによって到達できるのではなく、感覚的欲求が善に動かされるということも含まれています。

ここにも、最後に簡単な要約が付いています。ぜひ、ご覧ください。

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