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第138回 対神徳–(1) 信仰


前回、徳には、人間的徳と対神徳とがあることをお話し、人間的徳についてご説明いたしました。今回は、対神徳についてお話いたしましょう。

 
2 対神徳

対神徳は、直接、神を対象とした徳で、この徳によって人間は、自分のいろいろな能力を、神の本性にあずかることができるようにされるのです。

対神徳は、キリストを信じている私たちを、父と子と聖霊の三位一体の交わりに生きるようにさせるものです。ですから、対神徳の起源、動機、目的は、三位一体の神にあります。

神は、人間を三位一体の幸福な交わりの中に招き、ご自分と共に、その幸せを味わってほしいと人間を創造されました。そのように人間を創造された神は、私たちが、神の子どもとして、その神の永遠の生命にあずかることができるように、信者の心に神が注いでくださったものです。

この対神徳は、キリスト者が神のお望みになる倫理生活を送る土台となるものであり、その源でもあるのです。 これによって、倫理的な徳を生き生きしたものとし、活気づけます。

対神徳には、信仰、希望、愛の三つがあります。まず、信仰についてお話いたしましょう。


信仰

信仰は、対神徳です。この信仰の徳によって、私たちは、神と、神が私たちに語られ啓示されたこと、また教会が信じなければならないこととして教えているすべてのことを信じます。神は真理そのものだからです。

対神徳には、信仰、希望、愛がある、と申しましたが、信仰だけとか、希望だけとか、愛だけで存在するものではなく、この三つはそれぞれ、密接な関係があります。

聖パウロは、ガラテヤの教会の信徒に、生きた信仰は「愛の実践を伴う」(とガラテヤ5.6)と言っています。また、聖ヤコブは、「行いの伴わない信仰は死んだもの」(ヤコブ2.26)と言っています。

希望と愛の伴わない信仰は、信者をキリストに完全に一致させることも、キリストの生きたからだの一部とすることもありません。

キリストを信じ、キリストの後に従っていくと決心した人は、ただ、自分だけで静かに、こっそりと信仰を守っているだけでは足りません。

キリスト者は、自分のいただいた信仰を宣言し、公に言い表し、確信をもって行動であかしし、広める務めを持っています。

イエス・キリストに最初に従った弟子たちがそうであったように、今もある国々で、迫害があり、その尊いいのちを信仰のためにささげる聖なる殉教者がいます。わたしたちも、キリストに従うことは、キリストが辿られた十字架の道を歩むことでもあることを覚悟しておかなければなりません。

信仰を守り、あかしすることは、わたしたちの救いに必要なことなのです。キリストは、次のように話しておられます。「だれでも人びとの前で自分をわたしの仲間であるといいい表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であるといい表す……」(マタイ10.32~33)と。

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