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第172回 いさおし(功徳) –(1)
3 いさおし(功徳) –(1)
この項目について考えていたところ、2、3年前のことですが、「『いさおし』って何ですか? この言葉、初めて聞きました」という人に出会いました。「『功徳』のことですよ」とお答えしたのですが、ピンとこないようでした。
そこで、まず、定義から申し上げましょう。「いさおし」とは、ある団体、または社会が、善行あるいは非行などのために、報奨あるいは罰に値するとみなされる所属員の行為に対して与える、しかるべき報いです。ですから、人が行った行為に相当するものですから、相当性の原理に基づく、正義の徳と言えます。
神さまと人間との関係で見た場合、神さまの前では人間には「いさおし」というものはありえません。わたしたち人間は、創造主である神から、すべてをいただいて生きている存在だからです。神さまとわたしたち人間の間にあるのは、想像を絶するほどの不平等でしかありえません。
神さまのみ前で、キリスト者として生活しているわたしたちの「いさおし」は、神がお望みのままに人間を恵みのわざに協力させてくださったことによるものです。最初に父なる神のみわざがあり、次に、わたしたち人間が、その神のみわざに協力したいと望み、自由に協力する行為があるのです。
ここから言えることは、わたしたち人間がどんなに善い行いをしたとしても、キリストの送ってくださった聖霊の恵みと助けが先にあり、それによって、善い行いができるのです。ですから、わたしたち人間の「いさおし」自体、神に帰すべきものなのです。