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第196回 ただ主に仕えよ–約束と誓願

◆ 約束と誓願

「祈り」「いけにえ」に続く今回は、「約束と誓願」についてです。まず、「約束」について、考えてみましょう。わたしたちは、小さい子どものときから、よく両親や兄弟、お友だちと約束してきた記憶があります。考えてみると、何度「はい、約束します」と言ってきたことでしょうか。

この約束の相手は、人間に対してでした。しかし、これから申し上げる「約束」とは、神との約束です。わたしたちは、洗礼や堅信、結婚、叙階などの秘跡の儀式書を見ると、何と何度も約束を神と交わしていることか、と驚いてしまいます。

洗礼式や堅信式などにご出席する機会があるとき、どのようなことを、神と約束したか調べてみるとよいと思います。そして、その約束に忠実だったかということも振り返って見ましょう。

そのような場合だけではなく、わたしたちは、祈りのときなどにも、神に四旬節の間に○○のお祈りをいたします、と約束することがあります。外国の映画を見ていると、「家族がバラバラになってしまいました。それで、わたしは、子どもたちが再び家族として一致できたら、わたしは感謝の心でルルドに巡礼いたします」とその家のお母さんが祈りながら神に約束しているシーンがありました。

わたしたちは、約束というと、人に対してのものも守ろうと努力しますが、神への約束は、もっと忠実に果たすように努めます。これは、ご自分がした約束は、決して違えることはないお方である神です。わたしたちが忠実に約束を守るとき、それは神にふさわしい崇敬をささげることになるのです。

誓願について、新教会法典は、次のように書いています。「可能でありよりよう善益について神に対し熟慮の上自由になす約束」と。そして「敬神徳によって果たされなければなりません」と続けています。誓願とは、キリスト者が自分自身を神にささげたり、よい行いをすることを神に約束したりする信心の行為なのです。

誓願を果たすことは、神に約束し、神に奉献したものを、神にお返しするのです。教会は、福音的勧告を実践する誓願に、とくに大きな価値を認めています。わたしたちが、「誓願」という言葉を聞くと、すぐに思い浮かべるのは、修道会に属している司祭やシスターたちのことではないでしょうか。その「誓願」がこれを指しています。

教会の歴史を見ると、どの時代にも困難に直面している教会を救ったのは、修道会の司祭や修道女(シスターたち)の働きと生き方、その存在でした。現在、先進諸国と言われている多くの国で、「召命が不足している」とか「司祭やシスターが減少している」と嘆かれているのは、この「福音的勧告を実践する誓願」を生きようとしている修道会の司祭・修道者たちの減少をいっているのです。

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