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 魔王

2001年9月

THE OGRE

魔王

  • 監督:フォルカー・シュレンドルフ
  • 原作:ミッシェル・トゥルニエ(『魔王』みずす書房刊)
  • 脚本:ジャン=クロード・カリエール
  • 音楽:マイケル・ブイマン
  • 出演:ジョン・マルコヴィッチ

1996年 フランス・ドイツ・イギリス合作 118分

  • 21996年ヴェネツィア国際映画祭ユニセフ賞受賞

主役のジョン・マルコヴィッツィは、この映画でナレーターもしているのですが、彼の声はやさしいですね。彼の演じるアベルも実にやさしい人物ですが、時代背景は厳しいものです。

フォルカー・シュレンドルフ監督は、この作品を「さよなら子供たち」の故ルイ・マル監督に捧げています。

ヒトラーが首相になり、スターリングラードの戦いでドイツ軍が敗北、ソ連軍に攻め込まれやがて敗れていく時代の流れの中で、学校に集められて軍事訓練を受け、連合軍と戦う子供たちが描かれています。少年たちの姿を描きながら、戦争のおろかさを伝える話とも読めるのですが、翻弄される時代の中で、主人公アベルの生き方が気になります。

物語

1938年のパリ郊外。

アベルは、内気な子で、仲間からいじめらると、先生から叱られるのはいつもアベルでした。悪いことをすると、先生は校長室へ行くように言います。校長室の前でひざまずいていると、中から校長先生が出てきて、頬をたたくのでした。そんなアベルを、体が大きく、裕福な家庭の子のネスターは、いつも守ってくれていました。

ある日、子どもたち全員が聖堂に集まっていると、後ろの方でいたずらが始まりました。そこで注意されるのは、やはりアベル。校長先生のところに行くように言われ、いやいや校長室に向かうアベルは、「学校が燃えたらいいのに」と、つぶやきます。 と、その時、まだいたずらを続けていた子どもたちの間から起こった火が聖堂で燃えひろがり、アベルの言ったとおり、学校は火事になってしまいました。この時、アベルは思ったのです。「私がこうして生きているのは、運命が私を生かそうとしているからだ」と。しかし、アベルはこの火事で、大切な友人のネスターを失ってしまいます。アベルの手には、ネスターがよく読んでくれた、森の絵本が残りました。

アベルは大きくなり、自動車の修理工としてつつましく働いていました。近所の子どもたちの写真を撮ることだけが、唯一の楽しみでした。そんな彼の前に、美しい少女が現れ友達になります。しかし、彼女のいじわるな証言によって、アベルは強姦罪で捕まってしまいます。

しかし、彼が送られたのは刑務所ではなく、戦地でした。すぐドイツ軍の捕虜となったのですが、皆が気づかないうちに、列から離れ、森の中に小屋を見つけました。彼は、たびたび抜け出してはこの小屋で自由なときを過ごしました。

ある日、森林監督官が小屋にやってきて、アベルを見つけます。森林監督官は、アベルの性格を気に入り、雑用係として、ゲーリング元帥の狩りの館に連れて行きます。森の中にある巨大なお城のゲーリング館では、ドイツ軍の勢いを象徴するかのように、ゲーリング元帥のわがままで贅沢な暮らしがくりひろげられていました。しかし、ドイツ軍の戦局が悪くなり、館は閉鎖され、ゲーリング元帥はベルリンへ呼び戻されます。アベルは、いつも遠くから見ていた、そして、森林監督官から聞いていた、カルテンボーン城へ行くことを志願し、雑用係として雇われます。

魔王

カルテンボーン城は、ドイツ軍幼年学校として、たくさんの子どもたちが暮らしていました。アベルは、子どもたちから慕われ、子どもたちの中で楽しい日々を送っていました。ある日、買い物に出たアベルは、近くを旅する少年たちと出会い、城に連れて行きます。このことを知った上官は、彼を少年たちをスカウトする係にしました。馬にまたがり、3匹の犬・ドーベルマンをつれて、村々の家をめぐっては、子どもたちを城につれていく彼を、人々は恐れ、「鬼」と呼ぶようになります。しかし、アベルは、この仕事は、少年たちを救うことであると信じているのでした。

やがて、ドイツ軍は、敗戦の色が濃くなり、カルテンボーン城にも、連合軍が攻めてきます。アベルは、子どもたちを、この戦いから守ろうとして、逃げるよう導くのですが、軍事教育を受けた子どもたちは、アベルを排斥し、銃を持って敵に立ち向かうのでした。

アベルは、子どもたアベルは、強制収容所へ連れていかれるユダヤ人の子どもを、城の屋根裏にかくまっていました。砲弾の炎に包まれながら、アベルはユダヤ人の子どもを肩に乗せ、やっとの思いで城を後にしました。頭から流れる血で前が見えなくなったアベルを、肩の上にいるユダヤ人の子どもが「右だ」「左だ」と導いて行きます。子どもを担ぎながら、アベルは凍てつく沼の中へと、一歩一歩進むのでした。

 

アベルの生き方は、なんとも不思議です。どうとらえたらいいのか、戸惑いを覚えます。あまりにも純粋なのか、あるいは、計算されたものなのか。アベルは、運命にもて遊ばれるように、苦しい状況に置かれるのですが、「今、生きているということは、運命が彼に生きるように導いているからだ」という発想から、置かれた場を、自分のいる場として、自由にのびのびと生きるのです。一見、とぼけたような、でも、そのとぼけの中で、生きていく道が開かれ救われるのです。

しかし、アベルの生涯を貫いているのは、子どものために生きるということでした。大人として子どものために何かしてあげるというのではなく、自然体で子どものそばにいるのです。きっと、彼の心が子どもに近いから、子どもの中で生きるのが一番よいのでしょう。

ですから、この「魔王」というタイトルも、アベル自身の生き方からすると、ちょっと違うのではないかと、思ってしまいます。子どもを連れて行かれる側からの、それも彼の生涯の、ほんの一時の姿を表現したもので、彼自身に当てはめる表現ではないでしょう。しかし、もっと深くみれば、彼の不思議な生き方が「魔」的なのかもしれません。

彼は、運命の中で生かされているようであり、自ら生き抜いていくようであり。しかし、最後は、ユダヤ人の子どもを肩に乗せながら、この子の導きの声に従って戦火をくぐりぬけることができ、凍てつく沼地の中へと入っていくのです。でも、何を求めて歩みを進めるのでしょう。その肩の子どもが重く、冷たい沼の向こうに何を信じているのでしょう。

子どもの重さを感じながら、アベルは心の中でこう語っています。

   学校で、教師が教えてくれた。
   クリストフォロは、若きキリストを肩に乗せて河を渡ったという。
   それゆえ、彼ら2人が分かち合った苦難の中で、
   キリストのイノセンスは、美になりえたのだ。
   我々は、全てクリストフォロのもとに位置している。
   だからこそ、我々は、イノセンスの仮面の下に隠れている邪悪心を、
   どのようにして超えていくか、知る必要があるのだ。
   君たちは皆、“子どもの担い手”と呼ばれていることを覚えているか?
   聖なる荷を肩に担ぎ、君たちは河や海、また嵐までをも超えるだろう。
   罪なる炎さえも……。

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