home>シスターのお薦め>お薦めシネマ>アフガン 戦場の旅~記者たちは何を見たのか

お薦めシネマ

バックナンバー

 アフガン 戦場の旅~記者たちは何を見たのか

2002年5月

僕の

  • ドキュメンタリー映画
  • 監督・撮影・編集:吉岡逸夫
  • 編集協力:金子裕昌
  • 特別協力:安岡卓治・代島治彦

2002年 日本映画 70分

 

2001年11月3日、同時多発テロ事件に対する米国のアフガニスタンへの報復攻撃の取材に出た。パキスタンからトルコ経由でタジキスタンに入る。そこから、アフガンの首都カブールへ。
カブールで見た光景は、日本で報道されるアフガンのイメージとは違っていた。

映画の冒頭に流れる、ナレーションです。

映画の製作者は、東京新聞記者の吉岡逸夫氏。吉岡氏は昨年11月3日から約2カ月間、アフガニスタンで現地の取材にあたりました。彼の所属は、なんと学芸部。こういう場に派遣されるのは、外信部や社会部の記者たちなのに、なぜ学芸部の記者が……。ま、理由はいろいろとあるのですが、このあいまいなところが東京新聞の良さ(?)なのだそうです。「学芸部の記者」という視点が、この戦地でのドキュメンタリー映画という厳しくなりそうな内容を、ほのぼのとしたものにしているようにも思えるのですが……。

さて当時は、アフガニスタンに対するアメリカの空爆のニュースが、新聞でもテレビでも連日トップで報道され、日本ばかりでなく世界中がアフガニスタンに集中していたのではないでしょうか。アフガニスタンには直接入れなにので、隣国パキスタンには、アフガニスタンを目指す世界のジャーナリスト、新聞記者、レポーター、カメラマンたちが集まっていました。日本人記者の身勝手な行動が原因で、入国許可がおりないという緊迫したときもあったのですが、謝罪によってやっと許可が下りました。しかしイスラマバードからカブールに入るためには、距離的には近くであるにもかかわらず、ルートとしてはものすごい遠回りをさせられるのでした。イスラマバード → アラブ首長国連邦のドバイ → トルコのアンカラ → イスタンブール → タジキスタンのドシャンベ そして、カブール。小アジアを一周しての入国です。

飛行機は軍が手配してくれるのですが、費用はとても高いものです。料金のほとんどが生命保険代だからだそうです。さらに車や、現地で雇う通訳や運転手への支払い、ホテル代など、戦地での取材費は高額になります。また、現地では空爆が行われているのですから、いつ誤爆でやられるかわかりません。さらに、街から一歩出ると、あちらこちらに地雷が埋められています。危険きわまりない戦地へ、記者たちはなぜやってきたのでしょうか? この疑問が、テーマになっています。

「あなたは、なぜ、ここに来たのですか? 社の命令ですか、それとも、自らの希望ですか?」
 「怖くないですか?」

昨年、世界各地で100人以上の記者が取材中に亡くなりました。アフガンだけでも8人が、亡くなっています。

 

1映像は、飛行機の窓からみえる真っ暗なパキスタンの首都、イスラマバードの夜景からはじまります。記事を本社に送りながら、吉岡氏は手持ちの格安のデジタルビデオカメラを回しはじめました。

アメリカによる空爆により相当の被害を受けていると思って入ったカブールの街でしたが、街は意外と平穏で、市民は通常の生活を送っていました。カブール陥落後、北部同盟の戦士らが戦車で街に入ってくるかたわらで、結婚式がごく普通に行われていたりします。報道とは、だいぶ違うカブールの様子に吉岡氏は驚きました。

その中で、インタビューは行われました。ニューズディ(アメリカ)やサンデーテレグラフ(イギリス)など海外の記者、アジアプレス、共同通信、朝日新聞の記者たちがインタビューに答えています。

自分の意志で来た人、使命感はなく新聞社の命令で来た人、他社との関係や経費のことを考えている記者の姿がありました。自己満足に終わっていないか、ジャーナルな映像かそれともドキュメンタリー的な映像か、多額の経費にみあった取材をする必要性、さまざまなしがらみの中で苦しむ記者たち……。

そこには、報道された記事やニュースを目にした私たちにはわからない「報道の舞台裏」がありました。吉岡氏はこう結びます。

    ジャーナリストとは、
    火事を一番前で目撃し、後方の人に伝える伝達者にすぎない。
-------------------------------

▲ページのトップへ