お薦めシネマ
ポー川のひかり
2009年8月
Cento Chiodi
- 監督・脚本:エルマンノ・オルミ
- 音楽:ファビオ・ヴァッキ
- 出演:ラズ・デガン、ルーナ・ベンダンディ、
ミケーレ・ザッタラ、ダミアーノ・スカイーニ - 配給:クレストインターナショナル
2006年 イタリア映画 1時間34分
- 文部科学省選定(青年向、成人向)
- 2007年カンヌ国際映画祭 特別招待作品
- イタリア映画祭2008 上映作品
貧しい小作農の家族の生活をとらえた「木靴の樹」で、1978年、カンヌ国際映画祭でグランプリを獲得したエルマンノ・オルミ監督の最新作です。監督は、この映画が「自分の最後の劇映画作品になるだろう」と語っています。これからもドキュメンタリー映画は撮り続けるそうですが、この作品は、監督の人生の集大成として意味が込められている作品です。
物語
イタリアの古都ボローニャ。夏休み中で学生たちのいない図書館で、奇妙な事件が起きた。看守が入り口の閉じた図書室をのぞいてみると、なんと、床と机一面に古書が開かれており、その開かれたページに五寸釘が打ち込められていたのだ。まるで、書物が十字架刑を受けているようだ。警察がやってきて、大学内は騒然となる。図書室の責任者で、これらの膨大な書物を集め、書物を友として人生を送ってきた高齢の司教(ミケーレ・ザッタラ)は、その本に埋もれるようにして毎日をここで過ごしてきた。司教はこの不気味な光景に、大きなショックを受けた。皮肉なことに、釘で打たれた書物が並ぶ光景は、芸術的な美しさを持っていた。いったい、だれがこんなことを……。容疑者として浮かんだのは、司教が後継者として信頼し育ててきた若い哲学教授(ラズ・デガン)だった。
大学を後にした教授は、車を走らせてポー川にやってきた。橋の下に車を乗り捨て、車の鍵や必要なお金を抜き取った後の財布、上着を川に投げ捨てた。川辺を歩いていた教授は、川の土手にある朽ちた小屋を見つけ、その暖炉で論文らしき書類を焼いた。
町に出てパンや生活品を買い求めた教授は、小屋の周囲の草を刈り、簡易ベッドを運び入れた。土手の上の道を歩く人が声をかけ、教授に興味を持ったパン屋の娘(ルーナ・ベンダンディ)がパンを届けてくれた。うわさは広まり、次第に近くに住む貧しい生活の村人たちがやってきて、小屋の修理を手伝ってくれた。教授と親しくなった村人たちは、彼を“キリストさん”と呼ぶようになった。小屋が完成し、村人たちは軒先に置いたテーブルを囲んでブドウ酒で乾杯した。村人のひとりが、ブドウ酒の奇跡の話をしてくれと教授に頼んだ。黙ってキリストさんの話を聞いていたグイドは、夜中にキリストさんの小屋の戸を叩いた。彼は「放蕩息子の話」をしてくれと頼んだ。グイドは、家を出て行った息子のことを考えていたのだ。
ある夜、村の広場にあるテーブルを囲んで団らんを過ごしているキリストさんと村人たちの前に、ポー川の管理局の役員がやってきた。「川の半ばに港を建設することになった。ここに住むのは違法だから、立ち退け」というのだ。村人たちは、キリストさんに助けを求める。
“キリストさん”が聖書のたとえ話を語る場面で、村人たちの生活とぴったりと重なっているのに驚きました。聖書のことばは、2000年前にユダヤのあの地域で語ったイエスのことばと同じように、今もわたしたちの生活の中の話として、人々を癒やし、力を与えることばとなのだと感じました。
現代の教会やわたしの信仰が求めているものが、はたしてそういうものなのか……と問いかける監督は、この作品でも、力ある者の下で苦しむ人々に、名もなき市井の人々にやさしい眼差しを向けています。
「『この闇に閉ざされた時期にあって、心の支えとし希望を見出すための指標となり得る人、人類の絶対的な模範として、だれを思い出せばいいのか』と問うとき、その答えは『キリスト』となるが、それは書物の中にいるキリストではなく、わたしたちと同じ人間としてこの世界に生きているキリスト、人間キリストなんだ」と、監督はこの映画をとおして訴えています。
書物への愛をこの世でもっともすばらしいことのように語る司教の姿に対して、村人は「あんたはわたしより賢い。しかし、書物を愛するより、人を愛し、友と食卓を囲む方が幸せ!」と語っています。イエスも、多くの人々と食卓を囲み、食べ物を持たない群衆のために、パンを増やす奇跡を行い、互いを思うことの大切さを自らの行為で示しました。扉を堅く閉めて、部屋の奥に身をひそめて自分の世界の中だけで生きているのは、司教だけではありません。ゲームに夢中になっている人々、コンピューターの画面の奧に広がるインターネットだけを見つめている人々、また、社会の重圧から暗い思いに追い込まれてしまった人々もいます。また、物質に価値を置いているわたしたちもそうかもしれません。
イタリアの北部を横断するポー川は、土地の人々にとっては大切な「母なる川」だそうです。とうとうと流れる川のほとりで、水面にゆれる光のきらめきに照らされるとき、大きなものに包まれている安心と、自分を解放することのよろこびを体験することでしょう。
どの場面も、何かのシンボルとして語られているようで、もう一度、見たくなる作品です。