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お薦めシネマ
BOX 袴田事件 命とは
2010年6月
- 監督:高橋伴明
- 脚本:夏井辰徳、高橋伴明
- 音楽:林祐介
- 出演:萩原聖人、新井浩文、村野武範、保阪尚希、
石橋凌、吉村実子、中村優子 - 配給:スローラーナー
2010年 日本映画 1時間57分
- 2010年モントリオール国際映画祭コンペティション部門正式出品作品
2009年、足利事件の犯人として17年間服役していた菅谷利和さんが冤罪であることがわかり、再審の判決で無罪が言い渡されるという大きな出来事がありました。DNA鑑定の結果、および当時の取り調べの記録が公開され、自白を強要されたことが証明されたのです。警察の強引な取り調べによって、極限まで追い詰められた人間の精神は、意思に反してラクになるため、やってもいないことをやったような自白の形にさせられたのです。昭和41年に起きたいわゆる袴田事件の袴田巌さんも冤罪の犠牲者と言えるでしょう。この事件を担当した判事の一人が、「袴田事件は無罪だと思う」と告白したことが新聞にも載り、社会はショックを受けました。なぜ、今になって…、とだれもが思いました。冤罪で苦しんだのは、犯人とされた袴田さんとその家族だけでなく、無罪を確信していながらも、2対1で死刑判決文を書かなくてはいけなかった担当判事も、また、袴田さんとは別の苦しみの日々を送ったのです。
「BOX 袴田事件 命とは」は、どのようにして冤罪となっていくのかを描いていきます。さらに高橋監督は、人が人を裁くことができるかということをテーマに、昨年からはじまった一般市民が参加する陪審員制度に結び付け、今の時代を生きるわたしたちに問いかけてきます。
物語
昭和41年6月30日、当時の静岡県清水市の味噌工場から火が出て、焼け跡から4人の焼死体が発見された。死体は工場の持ち主一家で、刺し傷があった。警察は、容疑者として従業員の袴田巌(新井浩文)を疑う。その工場では、彼だけがよそ者で、元プロボクサーで力があったこと、妻に逃げられ小さな子どもを抱えて借金があるかもしれないと思われたことなど、うわさと想像だけで容疑者として逮捕した。証拠不十分で一度は釈放されるが、警察は再度逮捕。そして巌は自白した。立松刑事(石橋凌)の執拗な疑念の中で、長時間にわたる拷問のような取り調べが行われ、意識がもうろうとした巌は、誘導尋問のような答えを自白のようにされたのである。
(c)BOX製作プロジェクト2010
裁判を担当することとなったのは、石井(村野武範)、高見(保阪尚希)、熊本(萩原聖人)の3人だった。第一回公判で、巌は起訴事実を否認し無実を訴えた。警察の取り調べに疑問を持った熊本は、膨大な調書を一冊一冊調べはじめる。そこから、犯行の動機が、取り調べ毎にころころ変わっていることに気づく。熊本は、「警察が、自白を強要したのでは……」と疑問を抱き、巌の無実を確信するようになる。
(c)BOX製作プロジェクト2010
裁判は長期化した。そんな中、事件から一年もたって、警察は新しい証拠を法廷に出してきた。味噌だるの中から、血のついた衣服が見つかったと言うのだ。熊本は、この証拠にも作為を感じ、「これで判決を出し、新しい犯罪を生むことになる。それはわたしたちの罪だ」と他の2人の判事に訴えるが、2対1で、巌に死刑の判決を下すことに決まる。そして、熊本は主任判事として、判決文を作る役目を負わされる。
死刑宣告を回避することはできないが、熊本は判決文の中に「付記」を加え、警察の捜査官の取り調べに対する精一杯の疑問を込めた。昭和43年9月11日、熊本が泣きながら書いた判決文が、裁判長である石井によって読み上げられた。
この日から、巌は「死」に怯え、熊本の苦しみは家族にも影響を及ぼすほど深まっていった。
裁かれる側の袴田さんと、裁く側となった熊本さんは、同じ年です。2人の成長や家族を対比しながら、映画は進んでいきます。さらに、袴田さんへの有罪判決が、警察の自白の強要によるものだけでなく、警察と検察、マスコミ、そして裁判官との関係が影響していることが浮き彫りにされていきます。
この判決の後、熊本さんは判事を辞し、大学の法学部の教授となって後輩を育てる側に立ちます。さらに教鞭に立つの傍ら、無実を証明するために警察の捜査をたどったり、事件の一年後に突如提出された味噌だるの中から見つかった血のついた衣服について実験を行い、その結果を弁護士に送ったりします。しかしそれは日の目を見ることなく、昭和55年、高裁上告が棄却され死刑が確定します。
熊本さんが教壇を去るとき、次の言葉を学生たちに残します。「人を裁くというのは、同時に、自分も裁かれるということです。そのことを真剣に考えてみてください」と。
息子を信じて心配し続ける巌の母親(吉村実子)と姉(中村優子)の姿が救いです。
果たして人が人を裁くことができるのか。聖書ではできない、裁くことができるのは神だけであると教えています。裁判という公の大きな場面でなくとも、毎日の生活での人とのかかわりの中で、確かな情報もないのに他者を決めつけて見たり、隣人を裁いたりしている自分がいます。小さなことから、一歩がはじまります。
この事件は現在、第2次再審請求中です。