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 ヒロシマ・ピョンヤン

2010年7月

棄てられた被爆者

ヒロシマ・ピョンヤン

  • 監督・撮影:伊藤孝司
  • 監修:李実根
  • 音楽:河弘哲
  • 出演:李桂先(リ・ゲソン)、許必年(ホ・ピルニョン)
  • ナレーション:伊藤孝司
  • 朗読:新屋英子
  • 配給:ブラウニー
 

2009年 日本映画 90分

広島と長崎の原爆投下の影響を受けた多くの人々の中に、朝鮮半島から来た人々が多くいました。その数は、広島で約5万人、長崎では約2万人と言われています。彼らの中で、日本に住んでいる人々は、近年は補償を受けることができるようになりましたが、国交のない北朝鮮に住んでいる人々は、日本政府の補償を受けることができずにいます。

伊藤孝司監督は、長い間、日本による植民地支配や侵略戦争によるアジア太平洋の国々の被害者を取材してきました。そこには、「日本が再び加害者にならないように」という願いが込められています。

伊藤監督が水俣病の取材で水俣市を訪れたとき、在日韓国・朝鮮人被爆者の存在を知りました。それまで長い間、広島・長崎で取材をしていても、外国人の被爆者についてまったく知らなかったそうです。この事実に衝撃を受けた伊藤監督は、すぐ在日韓国・朝鮮人被爆者たちの取材を始めました。

「ヒロシマ・ピョンヤン」は、北朝鮮に住む一人の被爆女性と、日本に住む彼女の母親の姿を中心に追っています。国交のない2つの国に暮らす、共に被爆者である母と娘を見つめながら、なぜ、被爆者が北朝鮮に住むようになったのか、またなぜ日本政府の保護から除外されているのか、在日韓国・朝鮮人被爆者たちの実態に迫っていきます。被爆者たちも高齢になり、亡くなっていく人も多くなりました。日本の戦後を語るときに、彼ら在朝被爆者の存在は、すっかり忘れ去られています。日韓併合100年を迎える今年、広島と平壌に住む母と娘の涙をとおして、戦前の日韓関係を知らなければ、戦後を語ることにならないということを、この映画は訴えています。

 

物語

 

北朝鮮の首都・平壌。李桂先は、手の指先の皮膚が一日に何回もむけ血がにじむという症状に悩んでいました。小さいころから消化器系が弱く、ときどき体調を崩していましたが、原因はわかりませんでした。

広島に原爆が投下されたとき、李さんは3歳でした。広島から27km離れた大竹市に住んでいたのですが、8月17日に、帰国を希望する人は日本の行政当局に申し出て、必要な書類をそろえれば帰国費用が支給されるという話を知人から聞きました。早い者勝ちと知ったお母さんは、翌日、さっそく近所の朝鮮人の人たちと一緒に、原爆投下後の広島に入りました。原爆投下から12日目のことです。広島の町が、強い残留放射能で汚染されているということは知りませんでした。

「祖国で勉強して、祖国建設のためのお役に立て」とお父さんに言われた李さんは、1960年、一人で帰国船に乗りました。北朝鮮に渡った李さんは、幸せな結婚をし、かわいい孫たちに囲まれています。母親の許さんは、李さんが被爆者であると知ったら、嫁に行くことができず、また子どもを産むときにも悩むだろうと思い、ずっと黙っていたと言います。2004年、北朝鮮を訪れたお母さんは、李さんが被爆者であることを伝えました。李さんは言います。「(被爆者と)知っていたら、結婚も出産も悩んだことでしょう。しかし、被爆者であると知った今は、子どもや孫に影響が出ていないか心配です。」

広島・長崎の被爆者の中には、朝鮮・中国・台湾・東南アジアの国々、オランダ・英国・米国の捕虜などがいます。これらの人々のうち、日本に住んでいる人々には「健康管理手当」などが支給されています。日本以外で暮らしている「在外被爆者」たちは、「被爆者はどこにいても被爆者」を合い言葉に、日本の被爆者と同じ措置をしてほしいと運動し、日本政府から支給を受けることができるようになりました。

李さんも2007年に、「被爆者健康手帳」を取得するために日本に来ることになっていました。しかし、付き添いの入国が認められないことから、来日を断念しました。体調のよくない李さんが、一人で来日することは不可能だったからです。「日朝関係がこういう状態だから、残念です。日本政府からの謝罪と補償を受けたいと心から望んでいる」と李さんは語ります。

2008年には、広島医師会の代表たちが平壌を訪ねました。彼らの在外被爆者支援は30年ほどになりますが、このたび、北朝鮮にいる被爆者たちについても、拉致問題や6か国協議問題とは別に、純粋に医学の立場から医療支援したいということです。

李さんのお母さんは、たびたび北朝鮮を訪れましたが、2006年、日本政府の朝鮮への制裁阻止として朝鮮船籍の船の入港が禁止されてからは、北朝鮮を訪ねることはできなくなりました。

「オモニ、会いたいよ。オモニ、会いたいよ」映画の終盤で、李さんが日本に住むお母さんに切々と訴えるビデオレターがノーカットで流れます。しかし、ビデオレターを撮影した5日後の2009年4月17日、李さんのことを思い続けたお母さんは、86歳でこの世を去りました。

 

李さんの日本語はとてもしっかりしています。しかし彼女の人生は、歴史に翻弄され、国の負債をその人生に背負わされています。映画にも登場しますが、李さん以外にも多くの人が苦しんでいます。戦争には、いろいろな側面のあることを、また改めて知らされました。後世に伝えるための、貴重な記録映画だと思います。


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