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 遙かなるふるさと 旅順・大連

2011年 5月

Far-Away Home:Lushun and Dalian

遙かなるふるさと 旅順・大連

  • 出演:羽田澄子
  • ピアノ:高橋アキ(サティ・ピアノ音楽全集)
  • 編集・製作:ジャン・ユンカーマン
  • 配給:自由工房作品

2011年 日本映画 1時間50分

  • 第23回東京国際女性映画祭参加作品


記録映画の監督として、数々の名作を世に送り出してきた羽田澄子監督は、1926年、大連で生まれました。学校の先生だったお父様の関係で、2年後三重県津市に引っ越し、満州事変のはじまった1931年、幼稚園に入園。その後静岡に移り小学校に入りますが、すぐ津市に戻ります。2.26事件のあった1936年、お父様の転勤で、再び中国へ渡り旅順第2小学校へ転校します。日中戦争がはじまった1938年、旅順高等女学校へ入学、女学校を卒業した1942年に単身来日し、東京の自由学園に入学します。自由学園を卒業した1945年、中国にいるご家族のもとへ戻り、満鉄中央試験所に就職します。そして、敗戦を迎え、3年後の1948年、日本に引き揚げます。

今年83歳を迎える羽田監督は、まさに日本の戦争の時代を歩んできました。「わたしのふるさとは旅順です」と言われ、いつかふるさとの旅順を撮りたいと思っていましたが、旅順はなかなか外国人を入れませんでした。2009年の暮れ、やっと入国がゆるやかになり、日本からのツアーが計画されました。羽田監督は早速ツアーに参加しました。今回の作品は、このツアーの2日間と、その後の数日間の撮影から生まれた作品です。

足を悪くされた監督は、車いすやつえを使ってツアーに参加しました。「長い間希望していた作品で、そういう気持ちで作った作品です」とおっしゃる羽田監督の思いを想像しながら見たいと思いました。

今は高層ビルが建ち並び、東京以上の発展を見せる旅順ですが、かつては緑がある美しい街でした。ツアーに参加した人々の多くは、監督と同じように幼いころ旅順に住んでいた人々で、かつて住んでいた自分の家を見つけ、懐かしく思い出を話しています。今も残っている家が多く住まいとして使われていました。しかし、家の中の間仕切りはすっかり変わっていました。人が住んでいるので中に入ることはできないと思っていましたが、中国の人々は、みなすぐ家の中に招き入れてくれました。訪れた人々は、突然の訪問なのに、こんなにも家の中まで見せてくれる中国の人々の寛大さに驚いて深く感謝していました。

遼東半島の先端に位置する旅順は、昔から良好な港として知られ、また要塞として重きを置かれ、ゆえに複雑な歴史を持っています。街には中国の建物の他に、帝政ロシア時代の建物、日本支配のときの建物が共存しています。中には、今も使われており、または遺産として保存さている建築物もありますが、見る影もなく崩れた姿をさらしている建物もあり、かつて栄えた街の趣を知っている監督としては、悲しいところです。

当時、日本人が20万人も住んでいたそうですが、中国人はクーリーという重労働の下働きをしていました。羽田監督の少女時代もクーリーが家にいたそうですが、どの家でも当たり前のことなので何とも思わなかったそうです。しかし日本に行き、再び中国に戻ったとき、中国の人々がクーリーとして過酷な生活を強いられていることを、強く感じだそうです。

羽田監督の成長にそって、ご家族の様子とともに大連、旅順の街の様子が語られていきます。街のどこからでも見える白玉塔(日露戦争勝利記念塔)、学校へ通いまた家族と歩いた道やお店をたどりながら、当時はこうだったと説明される監督のお話と声の調子から、日本の戦争時代の満州での華やかさと、その後ろにある重く暗い歴史を感じました。
(ここ3年に渡ってNHKで放送されている「坂の上の雲」が、この時代の歴史をよく教えてくれます。)

戦争時代、そこに生きていた人々の声を聞きながら、日本と中国の歴史を、また別の角度から勉強させていただいた貴重な記録映画です。このような歴史を抱えながら、今、大きく発展していく旅順と大連。これから、どのような中国の都市になっていくのでしょう。


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