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 いわさきちひろ ~27歳の旅立ち~

2012年 6月

 

いわさきちひろ

  • 監督・編集:海南友子
  • エグゼクティブプロデューサー:山田洋次
  • ナレーション:加賀美幸子
  • 出演:黒柳徹子、高畑勲、中原ひとみ、松本善明、松本猛、
    早乙女勝本、松居直、田島征三、武市八十雄、他
  • 声の出演:檀れい、田中哲司
  • 配給:クレストインターナショナル

2012年 日本映画 1時間36分


にじんだ水彩、淡い色合いの中に、あるポイントだけしっかりと描かれている、そんなやさしい画が特徴のいわさきちひろ。その作品は、絵本、単行本の表紙、宣伝用チラシなどで、だれもが見たことがあるでしょう。映画「いわさきちひろ ~27歳の旅立ち~」は、いわさきちひろの画家として人生を描いたドキュメンタリーです。

そのやさしい絵からは想像もできない厳しい人生を送ったちひろは、現代の絵本作家の地位確立のためにも、自分が盾となって働いた人でした。夫である松本善明氏、息子の松本猛氏を含む19人によるインタビューと、そのときそのときに彼女が生み出した作品を紹介しながら、ちひろの人生を明らかにしていきます。

    *     *     *     *    *    *    *

1918年(大正7年)、福井県武雄市で、軍属の建築技師の父と女学校の教師である母との間に生まれたちひろは、まもなく父の転勤で東京に移り住みます。14歳で、デッサンと油絵の勉強を始め、18歳から書を学びます。20歳のとき、婿養子を迎え、夫の転勤にともない中国の大連に移りますが、夫の死で帰国。書家を目指します。1945年5月の東京の空襲で家を焼かれ、長野県松本市に家族で疎開、8月、その地で終戦を迎えます。両親はその地に残り、安曇野で開拓を始めます。現在、そこに「安曇野ちひろ美術館」が建っています。

上京したちひろは、丸木俊に師事し、日本美術会、日本童画会のメンバーとなって絵本を出していきます。31歳で、松本善明氏と結婚。翌年、長男猛氏が生まれましたが、やっと認められて来た仕事を続けるため、息子を安曇野の両親のもとに預けます。33歳に練馬区下石神井に家を建て、猛をひきとって3人で暮らし始めます。この地が「ちひろ美術館」になっています。

その後、精力的に絵本を描き、数々の賞を受けます。

1965年、ベトナム戦争が始まり、次第に反戦運動が高まっていく1967年には、絵本「わたしがちいさかったとき」を出版します。1971年に十二指腸潰瘍を患い、その後は、入退院を繰り返します。その苦しみの中で、「戦火のなかの子どもたち」を描き続けます。

1973年のベトナム和平協定を見定めるかのように、翌1974年8月8日、原発性肝ガンのため55歳で亡くなります。

彼女の人生には、いくつかのポイントがあります。

そのひとつは戦争でした。それまで戦争に協力していた両親の姿を見、軍国少女として育ったのですが、終戦後の両親の姿を見て価値観が揺らぎ、また、反戦を祈っていた人々の存在を知り、絶望します。

たくさんの絵本を描きました。その本はどれも、当時の社会状況と、その時代の中で必死に生きるちひろの生活が反映されています。

当時、画家の待遇は低いものでした。自分が心血をそそいで描いた絵が、出版社で大切に扱われていないことを知り、絵本画家の権利を守るために働きます。画家の権利を認めない大手出版社と戦って仕事は減り、家計は苦しくなりますが、彼女は負けませんでした。「作品は、画家のものである」と訴え、やがて夫も巻き込み、多くの画家も彼女の働きを認めていくようになります。

にじみの技法を用いて描いた絵本「あめのひのおするばん」を出版したのは49歳のときでした。この作品は、社会に大きな衝撃を与えました。輪郭を描かない描き方は水墨画に通じるもので、この「にじみ」は見る人の想像力を駆り立てました。その後ちひろはこの技法で描き続け、新しい扉を開きました。

ベトナム戦争では、小さな息子の姿を見ながら「こんなかわいい子どもたちを傷つけてはいけない」と子どもたちを守りました。ちひろはベトナムの子どもたちの中に、満州の子どもたちを重ねてみていたのです。

 

おだやかな笑顔とおかっぱ頭が特徴のちひろの姿から、つつましく暮らしている女性の美しさを感じますが、心の中には、自立しようと悩み苦しむ、強い意志を持った女性の姿がありました。彼女の人生を見ていくと、激動の昭和が見えてきますが、それは、女性史の大切な時代でもありました。


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