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三里塚に生きる

2014年11月

うまれる

  • 監督・撮影:大津幸四郎
  • 監督・編集・プロデューサー:代島治彦
  • 音楽:大友良英
  • 写真:北井一夫
  • 朗読:吉行和子、井浦新
  • 題字・筆文字:山田麻子
  • 英語字幕: ジャン・ユンカーマン
  • 出演:山崎宏、萩原勇一、椿たか、三ノ宮静枝、
    堀越昭平、島寛征、石毛博道、秋葉清春、
    小泉英政、柳川秀夫
  • 配給:スコブル工房 代島

2014年 日本映画 2時間20分



大規模なデモが続き、路上に設置されたテントなどの強制撤去がおこなわれた香港の繁華街。長い間続いた市民たちと警察との激しい攻防の映像は、かつての日本を思い出させます。

1966年、佐藤栄作内閣は、羽田に代わる国際空港建設を計画し、四転五転の候補地選びの末、御料牧場があった三里塚・芝山地区を候補地として閣議決定しました。空港予定地に占める御料牧場はわずか40%。他は、周辺の農地ですが、政府は事前説明や代替地の準備を十分おこなわなかったため、ここでも地元住民の猛反対にあいました。その後も政府は交渉をいっさい行わなわなかったので、地元農民は「三里塚芝山空港反対同盟」を結成し、こうして10余年におよぶ三里塚闘争が始まりました。

1967年になると、農民たちの反対運動に、ベトナム戦争反対運動や佐藤栄作内閣への反対派、新左翼などの学生たちが加わり、闘争は激しさを増していきました。1972年、反対同盟は、フライトチェックを阻止するために、滑走路の南端にあたる地点に高さ63mの鉄塔を建て、この鉄塔は反対運動のシンボルとなりました。1977年、福田内閣は年内の開港を宣言し、5月6日未明、鉄塔の撤去のために2,100人の機動隊が導入され、午前11時、鉄塔は強制撤去されました。撤去後も激しい衝突が続き、支援活動をしていた男性の頭部にガス弾があたって命を落としました。その後も周辺や空港施設内で、衝突、襲撃などの阻止活動が続き、空港側も大幅な変更を余儀なくされましたが、1978年5月20日、成田空港は開港しました。

三里塚闘争は、人びとの記憶から忘れられましたが、飛行機が爆音とともに頭上を飛んでいく農地で耕しながら、反対していた人びとはどのように暮らしているのでしょうか?

 三里塚に生きる


「ニッポン最後の百姓一揆」の完結編として、三里塚を撮り続けたカメラマン・大津幸四郎氏との共同監督で、代島治彦監督は、東日本大震災と原発事故を体験した人びとへの人生の道標として、三里塚の精神を生きる人びとを追いました。

 三里塚に生きる

 三里塚に生きる


今も残る団結小屋を守りながら、反対の精神で生きる人。親同盟、夫人同盟、反対同盟事務局次長、青年行動隊で抵抗を続けた農民たち。支援活動をしていて三里塚に住み着いた人。テレビでは映し出されなかった、地元の人びとの怒り、涙、悔しさ、命を賭けての抵抗と、戦いの日々を撮ったかつての映像を出しながら、反対運動の日々、どのような思いで過ごしていたのか、どういういきさつがあったのか、今、当時のことをどう思い、どのように生活しているのかを、彼らへのインタビューで明らかにしていきます。

反対行動の中で、自死した仲間の言葉を、今も大切に受けて生きている仲間。ぼろ屋だからこのくらいの保証金でいいだろうと安い保証金を提示し、みせしめとして自宅と田畑を強制収用された大木よねばあちゃんの抵抗を、心に深く刻んでいる人びと。彼らの「三里塚の抵抗」への思いは、違った形で生き続けられています。

今、三里塚と同じことが、沖縄でおこなわれています。「三里塚に生きる」は、日本の歴史の中で、忘れ去ってはいけない、国民の生き様を描き出している貴重な作品です。


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