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グレース・オブ・ゴッド 告発の時

2020年 7月

BY THE GRACE OF GOD

 グレース・オブ・ゴッド

  • 監督・脚本:フランソワ・オゾン
  • 音楽:エフゲニー・ガルペリン、サーシャ・ガルペリン
  • 出演:メルヴィル・プポー、ドゥニ・メノーシェ、スワン・アルロー
  • 配給:キノフィルムズ、東京テアトル

2019年 フランス映画 137分

  • ベルリン国際映画祭銀熊賞(審査員グランプリ)受賞

2002年に、アメリカのメディアによって報道された神父による児童性的虐待事件は、世界各国でおこっていたことが明らかになった。各国のカトリック教会のトップは、事実を認識していながら隠蔽し否定していた。

「グレース・オブ・ゴッド」は、実際にフランスで起きた司祭による児童性的虐待事件に基づいている作品である。被害者である子どもたちは成長して父親となり、自分の子どもたちがあのときの自分の年齢になってきて、子どもたちをどう守ったらよいのかと思案する。自分の中で癒やされることのない傷となっており、教会や神父に対する不信頼、突き詰めていけば神への不信仰にまでおよぶ問題になり、それは、妻や子にも暗い影を落としている。


物語

フランス、リヨン。高い丘の上にある教会が、リヨンの町を見おろしている。2014年、妻と子どもたちとリヨンにするアレクサンドル(メルヴィル・プポー)は、まじめな信徒だ。しかし、最近心配なことがある。ボーイスカウトに入っているころ、教会で子どもたちを指導していたプレナ神父が、数年前にリヨンに戻ってきて、子どもたちに聖書を教えているという。

「君もプレナ神父に触られた?」ある父親から尋ねられた。アレクサンドルは、9歳から12歳まで、プレナ神父に性的虐待を受けた。彼は罪に問われたのだろうか。なぜ、今も子どもたちに聖書を教えているのか。同じ過ちが起きないだろうか。子どもたちのために、恐れずに直面すべきだ。

 グレース・オブ・ゴッド
(C) 2018-MANDARIN PRODUCTION-FOZ-MARS FILMS-France 2
CINEMA-PLAYTIMEPRODUCTION-SCOPE


妻とも相談したアレクサンドルは、仲介者に当時の話をし、プレナ神父に会うことにした。面会の日、聖堂に座る老いた神父の姿を見て、アレクサンドルは逃げ出すが、気持ちを整理して対面する。「ぼくに何をしたか覚えていますか」。神父は「子どもに惹かれる。病気なんだ。何度も直そうとしたが・・・」とか細く答える。小児性愛者。プレナ神父は、数年前、暴力的で感情的な親たちから激しい攻撃を受けたと言う。しかしアレクサンドルは思う。親たちの攻撃によるあなたの苦しみは、子どもたちの苦しみにおよばない、と。仲介者は、プレナ神父の手とアレクサンドルの手をあわせて主の祈りを唱えさせたが、プレナ神父からの謝罪のことばはなかった。

「皆知っているのに、何もしない」その後、アレクサンドルは、プレナ神父の上に立つ枢機卿に会い、枢機卿は「司祭は子どもたちだけと合わないように」と教区にふれを出す。一方で、アレクサンドルは、同じように被害を受けた人々の調査を進めていく。「恐れを克服し、ことばにできるまで30年かかった」。

アレクサンドルは、プレナ神父に対して告訴状を提出する。警察の未成年保護の担当者も動き出し、新しい被害者が見つかる。

フランソワ(ドゥニ・メノーシェ)の母親は、当日の枢機卿や数人の神父に、そしてプレナ神父にも手紙を出したと言う。トリスタンは、「クソ野郎に人生をぶちこわされた」と言う。3年間もレイプし続けられが。自閉症ぎみだったので、何もしゃべらないだろうと思われたのだろうか。

 グレース・オブ・ゴッド
(C) 2018-MANDARIN PRODUCTION-FOZ-MARS FILMS-France 2
CINEMA-PLAYTIMEPRODUCTION-SCOPE


アレクサンドルと出会った男性たちやその家族は、被害者の会を作ろうと集まる。復讐ではなく、正義の気持ちからである。名称は「沈黙を破る会」。「沈黙を破る会」の新聞記事を読んだエマニュエル(スワン・アルロー)は、けいれんを起こして倒れる。8歳から3年間被害を受け、た母親に話すことができたのは17歳だった。

「沈黙を破る会」の結成と活動をとおして、被害を受けた子どもとその親、兄弟の思い、また、妻や子どもたちの思いが明らかにされていく。そして、教会の体制も。アレクサンドルの息子は尋ねる「パパ、今も神を信じるか?」

2020年1月、プレナ神父の裁判が始まった。

 

神父による児童性的虐待事件は、大きな問題だったのだが、教会側は事の大きさに気づいていなかった。人の悲しみ、苦しみに「はらわたする」イエスを生きるという、本来の教会の姿を取り戻すために、司祭だけでなく信徒であるわたしがしっかりと神の前に立つことがでるために、この映画に登場するさまざまな立場の人を、しっかりと見つめたいと思う。



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