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シスター今道瑤子の聖書講座

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聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第6回 マタイ2章13~23節 わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した

2章13~23節は、以下の三つに区分できます(以下 数字は、聖書の節を表します)。
 ◆ ヨセフ、幼子とその母を伴いエジプトに避難する(2.13~15)
 ◆ ヘロデ、子供を皆殺しにする(16~18)
 ◆ エジプトから帰国する(19~23)

ヨセフ、幼子とその母を伴いエジプトに避難する(2.13~15)

2.13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」2.14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、2.15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した(ホセア 11.1)」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった

1章9節のヨセフの夢と 12節の占星学者たちの夢に引き続き、ここ2章13節と続く19~21節に再びヨセフの夢が語られています。これらの夢の場面で共通することは、天使を介して神の言葉が与えられることと、時を移さずメッセージを実行に移す受け手の迅速な従順です。この神の言葉に対する徹底した信頼と従順こそは、本文のなかで示されるキリストの生き方(4.1~11 参照)であり、キリストが弟子に求められる生き方の先取りなのです。

マタイの幼年物語を通じて見られる神の言葉への従順こそ、神を信じ、「わたしたちとともにおられる神」であるキリストを信じる者の生き方であるということをしかと心に留めたいと思います。

以前にも触れたことですが、キリストの死と復活直後、キリストの道を歩む者たちは、キリストとその復活の出来事の意味を旧約聖書のうちに求め、イエスにおいて旧約聖書は成就したと理解するようになりました。福音書の著者たちが「……と言われていることが実現するためであった」という決まり文句を記す場合は、「ここに記したことは神が先に旧約聖書であらかじめ告げられていたことを、イエスの出来事によってこのような形で最終的に実現されたのだ」という意味合いをもっています。

マタイは、旧約聖書に親しんでいる人々をおもな対象として福音書を記していますので、旧約聖書の預言はイエスの出来事において成就したということを重視し、福音書中に10回もこの表現を用いています。そのうちの3回(1.22、2.18、2.23)が初めの2章に集中的に見られることからも、1~2章が3章以降の内容を要約している事実がうかがえます。

マタイはイエスの誕生の意味を述べるにあたり、暴君ヘロデとの確執をとおして、かつてモーセの率いるイスラエルがエジプトの暴君ファラオとの間で体験したことをイエスに体験させ、エジプトに難を避けエジプトから帰るイエスの姿にイスラエルの歴史を体現させ、その意味を要約しています。出エジプト記の描写を下敷きにして幼年物語はしたためられているのです。紀元前1300年ごろエジプトの奴隷だったイスラエルの先祖たちがモーセに率いられて、エジプトから脱出したように、幼児イエスは母とともにヨセフに伴われて、エジプトに難を逃れます。

2章15節に引用されているホセア書の11章は、ホセア書の中でもっとも美しく神の愛が歌われている章です。神が背き去ったイスラエルに向かって歌う、愛のうたです。

1. まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
  エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
2. わたしが彼らを呼び出したのに
  彼らはわたしから去って行き
  ・・・・・・
  偶像に香をたいた。

第1節はエジプト脱出と契約締結のことを暗示しています。要約すれば次のとおりです。イスラエルの民がまだ民として形もさだかでなかったころ、神はイスラエルに無償の愛を示し、奴隷状態にあったイスラエルをエジプトから呼び出し、契約を結んで特別な意味の神の子、神の民としてくださいました。

2節はイスラエルが約束の地に導き入れられてから、その地のさまざまな偶像に魅せられてまことの神から遠ざかった不誠実が歌われています。2節の言葉からホセアは、神の恵みによってエジプトの奴隷のくびきを捨てて約束の地(=神の支配の象徴)に入るはずだったイスラエルが契約を破って偶像に走ったため、最初のエジプト脱出は目的を達成できなかったと理解していることがわかります。しかし続く神の言葉から新しいエジプト脱出が期待できます。

続いて神の細やかな愛とイスラエルの背きが歌われたのち、8~9節では神の無限無償の愛が次のように歌われます。

8. ああ、エフライムよ
  お前を見捨てることができようか。
  イスラエルよ
  お前を引き渡すことができようか。
  ……
9. わたしの心は内に変わり
  憐れみは燃え起こっている。(私訳)
  わたしは、もはや怒りに燃えることなく
  エフライムを再びほろぼすことはしない。
  わたしは神であり、人間ではない。
  お前たちのうちにあって聖なる者。
  怒りをもって臨みはしない。

神の無償の愛と憐れみによって、イスラエルの背きのせいで完成に至らなかった神と民との愛のきずなが回復されることが歌われています。

マタイはこのような文脈のなかに見いだされる「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した(ホセア 11.1)」を引用しています。本来イスラエルの民について述べられた言葉ですが、マタイはこれをイエスに適用します。イスラエルの民にとっての根源的な救いの体験であったエジプト脱出は、民の不誠実で挫折に終わりましたが、神はご自分の誠実ゆえに、イエスを新しいエジプト脱出へと呼び出されると見ているのです。イエスはこの呼び出しに全面的に応えます。この呼び出しは、「仕えられるためにではなく仕えるため、また多くの人の身代金として自分の命をささげる(20.28)」ことを目指しての、神の招きでした。

聖書に登場するイスラエルと関係した諸国のなかで、エジプトほど重層的な意味を持つ国は他に例がありません。そのためにはじめて聖書を読むかたにとっては、今日の説明は腑に落ちないことがあるかもしれません。

地形的に他国と隔絶された肥沃なナイルのデルタと河畔に繁栄した古代エジプトは、飢饉に苦しむアブラハム(創世記 12.10)とヤコブ(同 46.7)や亡国の民となったイスラエル人(エレミヤ 42.1~43.13)には摂理的な避難所となります。しかし反面この富める国の豊かさは、苦境にあるイスラエル人にとっては誘悪の種でもありました。苦悩のなかで神に誠実であるよりも、この世の権威に頼って安逸をむさぼる誘惑のもとでもあったのです(出エジプト 14.12)。

聖書の歴史を通じてイスラエルは危機に見舞われるたびに、神に信頼するよりエジプトに支援を求める誘惑にさらされています。今日読んだテキストのなかでもエジプトはこのような二面性をもって用いられています。わからないことはあまり気にせず読み過ごしておいてください。読み進むうちに解決することもあります。夜空に月を仰ぐときに似て、聖書の言葉はある日輝いて現れてきますが、それを味わい尽くすと雲間に見えなくなり、時が満ちると今ひとつ新しい面をかいま見せてくれます。

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