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元和(げんな)の大殉教-長崎


殉教者・イザベラと息子イグナシオ
山手教会
殉教者・イザベラと息子イグナシオ

1622(元和8)年9月10日、長崎の西坂において、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の司祭や修道士、信徒たち55人が、火刑と斬首によって殉教しました。この出来事は、「元和の大殉教」と呼ばれています。

 この大殉教の引き金となったのは、1620(元和6)年の起こった平山常陳事件があげられます。
 堺の朱印船主でキリシタンだった平山常陳の船が、イギリス・オランダの船隊によって拿捕されました。この船には、ドミニコ会のルイス・フローレス神父とアウグスチノ会ペドロ・デ・スニガ神父が日本へ密航しようとしていました。
 平戸領主 松浦隆信と長崎奉行 長谷川権六によって、取り調べが行われましたが、反対にスニガ神父と、平山常陳からも長崎奉行に対して、イギリス・オランダの海賊行為が告訴され、事態は長期化しました。2年後に、スニガ神父とフローレス神父は自白に追い込まれ、2人の神父と平山常陳は、火あぶりの刑に処せられ、他の朱印船乗組員12名も斬首となりました。この事件が引き金となり、「元和大殉教」へと発展しました。

ジェズ教会 大殉教絵図
ジェズ教会 大殉教絵図

この大殉教で殉教したは、1617(元和3)年から1622(元和8)年の約5年のあいだに捕らえられ、大村の鈴田牢と長崎の桜町牢(通称:クルス牢)に入れられていたキリシタンたちでした。この中には、イエズス会のイタリア人宣教師カルロ・スピノラ神父や、日本人初の司祭セバスチャン木村がいました。

 長崎の西坂で火刑にされた者は、25名でした。その中には、イエズス会はじめ、フランシスコ会、ドミニコ会の司祭9名と修道士数名がいました。また、幼い子どもたちを含む30名のキリシタンが斬首の刑に処されました。その中には、ポルトガル人女性イサベラと4歳のイサベラの息子イグナシオもいました。

 1867(慶応3)年に教皇ピオ9世によって、一部の殉教者たちは「福者セバスチャン木村司祭と204殉教者」として福者にあげられています。



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