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キリシタンゆかりの地をたずねて
広島の殉教者
フランシスコ遠山甚太郎は、1600(慶長5)年に甲斐の国(現在の山梨県)の浅野幸長(あさの よしなが)の家臣の家に生まれました。
フランシスコ遠山の生まれた年、浅野幸長は、関ヶ原の戦いで徳川家康軍に属し、この戦いの軍功によって紀伊国和歌山三十七万六千石を与えられました。
遠山家も、領主・幸長に従いました。
幸長が江戸滞在中に病気を患い、多くの医師に診てもらっても治らなかったが、フランシスコ会のアンドレス修道士がその病を治しました。そのため和歌山に教会を建てる許可が与えられて、フランシスコ会のルイス・ソテロ神父によって和歌山最初の教会が建てられました。
甚太郎は、すでに禁教令が出た1616(元和2)年、16歳の時に、フランシスコ会のアポリナル・フランコ神父から受洗しました。洗礼名は、フランシスコ会の創立者であるアシジの聖フランシスコとして、その霊性に従って歩み、フランシスコ会の第三会であった「帯の組」に入り、迫害のもとで積極的に教会のために働きました。甚太郎は、宣教師たちに家を開放し、彼自身は地域の信者の支えとなりました。
1619(元和5)年、浅野長晟(あさの ながあきら)が安芸国広島42万石に加増移封されたため、19歳の甚太郎もこれに従いました。
広島には福島正則の時代からの信者の共同体が残っており、甚太郎は、武士のマチアス庄原市左衛門と町人のヨアキム九郎右衛門と出会い、霊的な友情を深めました。
1623(元和9)年、徳川秀忠は隠居して家光が将軍となると、12月には江戸の札の辻で50名のキリシタンが火あぶりにされたという江戸の大殉教がおこりました。翌年には寺請(てらうけ)制度が定められ、徹底的なキリスト教の迫害がはじまりました。
広島でも、キリシタン改めの命令が発せられました。
1624年2月、甚太郎のもとに主君の長晟から4人の使者が遣わされ、信仰を棄てるように最後の勧告が言い渡されました。しかし、甚太郎は「魂の救いに反しない限り、主君である殿に万事心から服従するつもりでいる、しかし、主なるキリストの教えに背くことは救いに反することであるから、その点では、殿に従うわけにはいかない」と答えました。
甚太郎の屋敷は包囲され、切腹の命がくだりましたが、彼はそれを拒み斬首を願いました。1624(元和10)年2月16日、屋敷内の聖母像の前で甚太郎は断首されました。24歳でした。
マチアス庄原市左衛門は、安芸に生まれました。
広島の牢番であったマチアスは、牢に囚われていたイエズス会のアントニオ石田神父から受洗しました。マチアスは、牢の内外で宣教師たちに熱心に協力していました。
1619年(元和5)に、浅野長晟が広島に入場した際、マチアスは家臣として迎え入れられました。しかし、キリシタンの取り締まりが厳しくなり、信仰を棄てるよう迫られましたがそれに応じず、捕らえられました。
投獄されていたマチアスに、フランシスコ遠山甚太郎は励ましの手紙を送っています。
マチアスは、牢獄でさまざまな拷問を受け、2月17日に、はりつけの刑によって殉教を遂げました。34歳でした。
ヨアキム九郎右衛門は、町人でした。
広島のキリシタンは福島氏や浅野氏についてきた家臣団が中心であり、もともとの毛利の時代からいた地元の人々は「安芸門徒」と呼ばれる熱心な仏教徒でした。そのような中で、九郎右衛門は、1608(慶長13)年に広島で洗礼を受けました。
彼は洗礼を受けた後、「慈悲役」を務め、貧しい人を助け、病人を見舞うなど伝道士として活動しました。しかし、近隣の人の密告によって捕らえられ、激しい拷問が繰り返されたがましたが、信仰を棄てることを拒みました。
3月8日、「主なるキリストの教えを受け入れよ。それなくして救いはない」との最後の言葉を残して、十字架につけられ槍に突かれて殉教しました。65歳でした。
広島市己斐に「広島キリシタン殉教の碑」があり、フランシスコ遠山甚太郎とマチアス庄原、ヨアキム九郎右衛門の名も刻まれています。
毎年2月には、ここで広島教区主催の殉教記念祭が行われています。