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キリシタンゆかりの地をたずねて
大村純忠 最初のキリシタン大名
横瀬浦港
大村純忠(おおむら すみただ)は、1533(天文2)年、肥前国(現在の佐賀県と長崎県)日野江城主であった有馬晴純(ありま はるずみ)の次男として生まれました。母は大村純伊(おおむら すみまさ)の娘でした。
純伊の後を継いだ叔父・純前(すみあき)に正室に子どもがなかったため、純忠は1538(天文7)年に4歳で純前の養子となった。純前の側室の子・又八郎は、武雄の後藤氏の養子となり、後藤貴明(ごとう たかあきら)と改名しました。家臣の反発や実子である貴明との対立など、純忠は試練が続きました。
1561(永禄4)年、平戸で、“宮の前事件”と呼ばれるポルトガル商人と日本人との間で発生した暴動事件で、ポルトガル人は平戸を去り、新しい港を探し始めました。1562(永禄5)年、イエズス会は新たな貿易拠点として横瀬浦を考え、純忠は受け入れました。
宣教師ルイス・フロイス像
ポルトガルとの貿易は経済的援助となりましたが、その利権をめぐり周辺諸国からの攻撃を受けることとなりました。そのような中で、キリストの教えが精神的な導きは、純忠にとって救いとなりました。横瀬浦に教会を建立し、自らもドン・バルトロメオの霊名をいただきキリスト教に改宗しました。
その頃『日本史』を著したイエズス会士の宣教師ルイス・フロイスも横瀬浦に上陸しました。
純忠を恨み持つ後藤貴明は、純忠に不満を持つ家臣たちと反乱を起こして横瀬浦を焼き払いました。純忠は、1570(元亀元)年に娘婿・長崎甚左衛門純景(ながさき じんざえもんすみかげ)に命じて港として長崎をイエズス会に寄進させました。
また、純忠は1565(永禄8)年に、福田港(茂木の地)をイエズス会に教会領として寄進しました。
後藤貴明は1572(元亀3)年には、諫早の西郷氏、平戸の松浦氏らとともに、純忠が築いた三城城を包囲しました。しかし、城にいた7人の武将と女、子どもら70余名で持ちこたえ、援軍を待って包囲を解かせたました。この出来事は、「三城七騎篭り」として語り継がれています。
イエズス会の巡察師・宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノと対面し、1582(天正10)年には、大友宗麟、有馬晴信らとともに、ローマに天正少年使節(天正遣欧少年使節)を派遣しました。4人の少年の一人千々石ミゲルは、純忠の名代で彼の甥でした。
豊臣秀吉の九州平定後、なんとか領地は安堵されましたが、純忠は次第に身体が弱り、坂口に引退しました。咽頭癌に冒されていた純忠は、隠居生活を送っていた坂口館で天正15年(1587年)55歳の生涯を閉じました。