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バスチャン屋敷跡
バスチャン屋敷跡

「バスチャン」とは、徳川家光のころに、深堀(長崎)平山郷出身の治兵衛という名の伝道士であったといわれています。おそらく、殉教者聖セバスチャンの霊名をいただき、それが「バスチャン」に変化したのでしょう。

 バスチャンは、迫害が厳しくなったため、現在は長崎市となっていますが、そのころは三重村といわれた地の樫山赤岳に潜んでいました。彼はそこで、信徒たちに教えを説き、洗礼を授けていました。

 しかし、さらに激しくなった迫害から身を隠すため、池島、松島などを転々とし、最後に出津牧野の「岳の山」に隠れ住みました。しかし、夕餉(ゆうげ)の煙によって発見され捕らえられました。長崎桜町の牢獄に3年3カ月囚われの身となり、78回の拷問を受けた後、斬首の刑に処せられました。

 外海黒崎の「サン・ジワン枯松神社」は彼の墓だという説もあります。

 「バスチャンの椿」という伝説があります。
 バスチャンが隠れ住んだ三重村の樫山赤岳は、当時「神山」と呼ばれていました。この神山にあった椿の大木の幹に、バスチャンが十字架を指で印すと、その十字架の印が幹に染みつき、はっきりと浮き出ました。その椿を、キリシタンたちは霊樹として拝むようになったそうです。

 当時、キリシタンにとってこの神山は、聖なる山とされ、三重村や出津からだけでなく、浦上からも信徒たちが巡礼に訪れたそうです。  浦上の三番崩れによって、迫害が再び激しくなり、樫山のキリシタンの中にも捕らえられる者がでました。そして、“バスチャンの椿”が、切り捨てられるとのうわさが流れました。そのうわさを聞き、出津の信徒がこの椿を切り、根本の大きな部分は海に流し、残りを持ち帰りました。持ち帰られた木は、キリシタンたちに配られ、彼らはそれを大切に保管しました。
 だれかが亡くなると、この椿の木片を小さく刻み、鉢巻きにして亡くなった人につけて葬ったといわれています。

 バスチャンが捕らえられたとき、役人に最後の願いとして、自分の身につけていたものを出津の重次に届けてもらうように頼みました。役人はそれを聞き入れ、2人の足軽に持たせました。

 足軽たちが、わらに包まれたそれをこっそりと見ると、中にはキリストの像がついた十字架が入っていました。足軽たちは、驚いてその十字架を落としてしまい、片方の腕が壊れてしまったのを修理して 重次に渡しました。

 この十字架は今でも、バスチャンの遺品として、隠れキリシタンたちの間で大切に保存されているそうです。

 また、「バスチャンの暦」は、バスチャンが宣教師から教えられた教会暦からのものです。また、共に宣教活動をしていたジワンという宣教師から教えられた 日繰りであるという説もあります。

 バスチャンは、「バスチャンの予言」といわれる次のような予言を残しています。
①お前たちを7代までは我が子と見なすが、その後は救霊は難しくなるだろう。
②コンヘソーロ(告白を聞く司祭)が、大きな黒船に乗って来て、毎週でも告白ができるようになる。
③キリシタンの歌を、どこででも大声で歌って歩けるようになる。
④ゼンチョウ(異教徒)に道で出会ったときは、先方が道を譲るようになる。

 キリシタンたちは、この予言をただひたすら信じて、信仰の自由が訪れる日を待ち望みながら、長い迫害の時代を耐え続けたのでしょう。



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