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謙遜な宣教女、Sr.鈴木が天国へ

2019.05.24


Sr.鈴木

パキスタンやアフリカへ宣教女として派遣され活躍したSr.マリア・アマビリ鈴木寛子が、5月22日(水)の深夜、直腸ガンのため入院先の病院で亡くなりました。後3か月で90歳でした。小柄で物静かなSr.鈴木は、体の割には大きな手でした。この手が、厳しい生活の宣教地で活躍し、パウロの娘の大きな情熱と固い意志を持って、シスターたちの生活を寡黙に支えました。

Sr.鈴木は、北海道の中標津町で育ち、1954年、24歳のときに東京修道院に入会しました。1963年に終生誓願を宣立するとほどなく、支部設立の試みをしていた新潟共同体に院長として派遣され、ここで「新潟地震」と津波の恐ろしさを体験しました。このとき、機知に富んだ対応をしたそうです。

東京での家庭宣教などを経て、1966年~1970年にかけて、パキスタンのカラチに宣教女として派遣されました。

帰国後の10年ほどは、仙台や東京修道院の台所、名古屋修道院の院長などを務めた後、1983年に再び、パキスタンでの宣教に向けてビザの取得手続きを始めました。しかし総長の求めに応じて、派遣先はアフリカへと変わります。語学が得意ではなかったようですが、存在をもって神を証しする生き方は、時の総長に評価され、1985年4月、55歳でウガンダに派遣されました。

「わたしは、イエス様の手に持ちやすく、お好きなところに投げられる、すべすべの石になりたい」とのことばを残して出発しました。当時のウガンダは内乱が続き、翌年には首都カンパラにもゲリラが侵入し、在留日本人の安全がニュースで報道されるほどの状態になっていました。そのなかで、Sr.鈴木の存在は姉妹たちを支え、温めました。

1999年にウガンダから帰国しました。今でも、東アフリカやパキスタンで生活を共にしたシスターから、さらにSr.鈴木が帰国した後に入会したSr.鈴木を知らない若いシスターからも、尊敬と感謝のことばが寄せられています。

Sr.鈴木


その後の20年は、長崎、神戸、札幌、東京第一修道院で、院内の奉仕に携わりました。Sr.鈴木は労を惜しまず、愚痴をこぼさず、淡々と働かれたことがしのばれます。緩和治療に移ることが決まったとき、こう話していました。「わたしはこれまで、病気のとき、またウガンダでも、死が隣り合わせということが何度もありました。それでも今まで生きてきました。今は、与えられた時間と体力で、できることをし続けたいと願います。死のための霊的な準備もしたい。手術などで寝ている時間はもったいないので、一日一日、感謝して準備したいです」。見事な識別の生き方でした。

昨年11月には、「感謝だけです、神様にも、修道会にも。病院に通っていたころから、死の準備のためにたくさん時間がいただけました。創立者の書かれたものも深めることができました。この修道会に召されたことを感謝しています。受けたものに応えて、修道会、姉妹たち、また人びとの救いのために、祈れる人になりたい。総会のためにも祈りたい。このために自分を奉献したい」と語っていました。

最後の入院で、強い痛みと戦いながら緩和治療を続けていたとき、Sr.鈴木は、「最後まで、わたし自身をあますところなくお捧げしたい。神様、助けてください」と祈っておられました。その願いは主に聞き入れられ、Sr.鈴木は、パウロの娘として生涯をささげ尽くされました。


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