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祈りのひととき

十字架の道行(2) 奥村一郎著『主とともに』-2 2

第8留 イエス、エルサレムの婦人らを慰める

泣くことを知る、
それはただ涙を流すだけのことではない。
砕かれた魂の廃虚に、神の愛の芽生えがひそかに調えられることである。

   沈黙

人のために泣く、それはときに美しい同情でもあろう。
しかし、そこには自分に酔う心が、ときに、足の裏を汚している。
ほんとうに泣くことを知らないわたしたちにこそ、涙すべきである。

「生木すらこのようである、
まして枯れ木はどのようになるであろう。
むしろ、あなたがたと、あなたがたの子らのために泣け。」
真底から泣くことを知らないわたしたちは、真底から喜ぶことも知らない。

生きることに虚しさをおぼえるのは、そのためである。
主よ、まことの涙を与えてください、
泣く者とともに泣くなみだを。

第9留 イエス三度倒れる

またも倒れるイエス、
泣く者を慰めながらここに、今、三度。

   沈黙

生きること、死ぬこと、それはただ人間の運命というのではない。
愛する者のために自らを与える決断をするとき、
そのときはじめて、わたしたちは「生き、かつ死ぬ」と言える。
パウロは言う
「わたしにとって、生きるも死ぬもキリストのもの」と。

わたしの生、それは死にゆくもの。
キリストの生、それは死によってよみがえるもの。
主よ、自らをすて、あなたに生きる力を与えてください。

第10留 イエス衣をはがれる

イエス、あなたの道は、自らをすてることと
人にすてられることいっさいを失うこと。
命までも、愛のために、愛によって。

   沈黙

イエス、あなたは今裸で
憎しみのたけり狂うさなか、ただ黙して立つ、
十字架の恥辱にさらされるために。

わたしはどうして、些細な人のうわさや批判、
思いのままにならぬことがあれば、
すぐに心乱れ、固く自分を閉じ、罪なき人たちに当たり散らすのか。

聖なる愛の孤独の厳しさが、わたしにはわからないでいる。

第11留 イエス十字架にくぎ付けにされる

両の手首、両足に打ち込まれる太い鉄くぎの音、
金づちを振りかざす兵士、
振り下ろす度にくぎが肉にくいこみ、鮮血を吹き上げる。

   沈黙

人類は狂っている
戦争、ぎまん、虚栄、欲望、
この罪のなくならないかぎり
神の子は今日も、わたしたちのために苦しみつづける。

あの日あのときの恐るべき受難は、
ひとときの信心の涙を誘うだけのものでよいだろうか。
主よ、来てください。
わたしにはあなたが不在なのです。
いいえ、不在にしているのです。

あなたの苦しみを今日もむなしくしているのです。

第12留 イエス十字架に死す

「わたしの神、わたしの神、
どうしてわたしを見すてられたのか。」

   沈黙

神が神に訴える謎の苦悶、
そこには神と人間の神秘
愛と死、罪とゆるしの、理解を絶した現実が、実存の深淵をつくる。

   沈黙

たたかれても、砕かれても、
「神よ」と言わぬ強情さは、力ある人間の誇りなのだろうか。
それとも
心の奥深くひそむ底知れぬ不安を
まともに見つめようとしない人間の虚勢なのだろうか。

ともあれ、神にすてられた神の子の叫び、
これは人間が、惨めなまでに愛することを知らなくては
けっしてわからぬ苦悩である。

第13留 イエス十字架より下ろされる

神は死んだ。

   沈黙

「おまえが神の子なら十字架を下りよ」とののしる者の前に
奇跡はなされなかった。
死に勝つために、神は死をうけとったのである。
   沈黙

「死とは何か」
いっさいを圧しつぶす虚無の暗黒。
いったい、それ以上のことをだれが言えるのか。
宗教がこの死の暗黒から人間を救い出すというのか。
そうではない。宗教でもなければ思想でもない、祈りですらない。

人間がなすことのできるいっさいは、死の前に無力なのだ。
救いうるものは、ただ神、
“死ぬことのできる神、現に死んだ神”だけである。

第14留 イエス墓に葬られる

すべては終わった。
しかし、その死の夜の浄暗は
すでにこれからすべてが始まろうとする
新しい生命の胎動を感じとっていた。

   沈黙

「だれがキリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。
患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。
わたしたちを愛してくださったかたによって、
わたしたちは、これらすべてのことにおいて勝ちえてあまりがある。
死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、
高いものも、深いものも、力あるものも、その他どんな被造物も、
わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、
わたしたちを引き離すことはできない。」

第15留 イエス、よみがえる

まことにわたしは言う。
「今あなたがたは泣き悲しみ、この世は喜んでいる。
しかし、その悲しみは喜びに変わるだろう。
婦人は子を産むとき苦しむ、自分のときが来たからである。

しかし、その子を産んでからはもう痛みをおぼえない。
この世に新しい生命が産まれ出たことを喜ぶからである。
あなたがたの喜びは、そのとき、もうだれにも奪われることはない。」

   沈黙

主よ、
エマオの弟子たちのように
わたしの心はみことばを信ずるになんと鈍く、
愛を知ることにいかにおそいことか。

あなたの愛の炎によって、わたしの醜さを焼きほろぼししてください。
わたしのすべてがあなたのうちに、
あなたによって、御父のものとなりますように。

終わりの祈り

この十字架の道行は終わった。
しかし、魂の道行は、来るべき日まで
愛を生きる道、死を生きる道を、日々新たにたどっていかなければならない。

「死のとげは今いずこにかある、死は勝利にのまれたのである。」
「キリスが復活しなかったらわれわれの信仰はむなしく、
われわれはなお、罪のうちにとどまっていたであろう。」

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