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新世紀ルーツへの巡礼

目次

パウロの娘、ローマへ

1) ローマ行きの準備

聖パウロ大聖堂外
聖パウロ大聖堂外

パウロの娘たち(聖パウロ女子修道会)の歴史にも いろいろな変遷がありました。

修道会の責任者となったシスター テクラ・メルロは、将来の必要に向けて 長い目で若い人や少女たちを準備していました。

1926年1月には、すぐさま実現する分かっていた ローマ行きに準備しなければなりませんでした。まず、ジャッカルド神父といっしょに他の司祭と修道士が出発し、そのすぐあとでパウロの娘たちの出発です。

ローマには、バチカンがあり、まだパウロの娘たちを知っているものはいません。というよりも、承認を受けていない、違法の存在です。正式に考えれば、つまりバチカン的に考えれば、アルバの司教もこの人たちを「知らない」はずでした。

将来、何人かの教皇がパウロ家族のローマ修道院訪問される時が来るのですが、いまは、パウロ会員もパウロの娘たちも不法入国者なのです。

ジャッカルド神父と少年たちのグループの少し後、パウロの娘たちもローマに到着しました。彼女たちはシスター アマリア・ペイローロが引率していました。

ジャッカルド神父が、少年たちを落ち着かせたのは オスティエンセ通りでしたが、シスター アマリアが 少女のための住まいを見つけたのは、半キロメートルほど離れたフルヴィアーレ門を通る道でした。パウロの娘たちが、自分たちの修道院に引っ越し、ローマにパウロ家族の町ができるのは、まだまだ時間が必要です。


1928年パウロの娘たち

●聖パウロ修道会同様、彼女たちも、闖入者(ちんにゅうしゃ)であり 無法もの生活です。その意味は、アルバの司教の認可も正式には受けていない、つまり、教会法によれば存在してもいない、ということなのです。

●第二は、他の教区の司祭や修道者は、たとえ一時的にでもローマに滞在したければ、司教代理枢機卿の許可が必要ですが、もちろん彼女たちには そのようなものはありませんでした。

ジャッカルド神父だけが、アルバの司教から不在許可書を受けていたのですから、ローマへの「許可」をもっていました。しかし、修道生活をする少年少女のためや、印刷機や、学校のための備品、その他いっさいのための許可ではありません。

彼女たちが滞在していた所は、ジャッカルド神父がアルバでアルベリオーネ神父から教えられたとおり、南イタリアにアルバで印刷した教区報をもっと楽に発送するための ローマに設置した「発送所」にすぎないのです。

前回にもお伝えしたように、ジャッカルド神父の人柄によって、ローマ総代理秘書、モンシニョール・パスクッチや、『チヴィルタ・カトリカ』誌の編集長であり、イエズズ会士 ローザ神父の心をもとらえました。彼らは、聖パウロ会が「教皇庁直轄修道会」への第一歩である「教区直轄の修道会」としての承認される道を開くのを援助しました。

教会内では、なぜ出版だけに献身する修道会がなければならないのか、という疑問や反対もありましたが、アルベリオーネ神父とその事業こそは「時のしるし」であると認められ、聖パウロ修道会の認可が得られたのです。

しかし、この許可は聖パウロ修道会のためであって、パウロの娘たちは 全く別に手続きをする必要がありました。アルベリオーネ神父はすぐ、1927年10月25日にその手続きを開始しました。

彼はパウロの娘たちが特別な制服なしに、当時の女性たちと同じ服装であることを望みました。しかし、これについては、アルベリオーネ神父は断念しなければなりませんでした。

◆3--4 パウロの娘、ローマへ


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