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新世紀ルーツへの巡礼

目次

聖師イエス聖堂

聖体訪問

1960年4月 特別黙想会
ヤコボ・アルベリオーネ師の講話から

女子パウロ会聖堂内
photo by:Shoko Sirai

聖体の秘跡は、単に恵みのシンボルであるとか、恵みを伝えるという、いわば洗礼の水のようなものではありません。恵みの創始者、イエス・キリストの御体、御血、神性がそのうちにあるのです。

ミサのなかで、聖体は十字架のいけにえを新たにし、そこから泉のように恵みが湧き出ます。

聖体は、パン、人間のまことの霊的糧となります。ここから結ばれる実は、恵み、喜び、活力、また「キリストが わたしのうちに生きておられる」というように、私たちのいのちが イエス・キリストにおけるいのちへと変容されることです。

さらに聖体の秘跡は、たとえば罪の赦しのような一瞬の秘跡でもありません。ご聖櫃(せいひつ)にとどまり続けられます。「わたしが あなたがたとともにいる」こう言われるかたは、第一の市民として、村にも都市にも住まわれます。

このように豊かなイエスの愛に、ふさわしくこたえなければなりません。ミサをささげ、聖体を拝領し、私たちの教会に聖体のイエスを訪問することで、ふさわしくこたえるのです。

パウロ家族は、聖櫃から生まれました。ですから、私たちは聖櫃からいのちを汲み続けて、生き、使命を全うすべきです。聖櫃からすべてが得られます。聖櫃なしには何もあり得ません。


ヨハネによる福音書の中に、次のように記されています。

ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ ―『先生』という意味 ― どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。

1章35~39節

この二人は、弟子に、そして使徒になりました。ひとりは、ヨハネ福音記者です。もうひとり(アンデレ)が最初にしたことは、イエスのもとに兄弟、すなわち、ペトロを連れていったことです。

公生活をはじめておられたイエスへの最初の訪問に、注目しましょう。これは一日の訪問です。イエスは、訪問者を変えられました。この訪問は、聖体訪問の最初のモデルとなりました。イエスを訪問することで 人のうちに生み出される、きわめて尊い数々の実りを示しています。

このように志願者が、このようにパウロ会員が、このように使徒が、弟子が、司祭が、イエスを訪問しますように。毎日のよい訪問をとおして、光、慰め、心の喜び、堅忍、聖性を受けるのです。

聖体訪問が、本当に訪問でありますように。それは、魂が、そして私たちの全存在がイエスと出会うひとつの出会いです。

私たちの存在は、いわば、
造り主に出会う被造物。
師イエスのみもとに行く弟子。
魂の医者にかかる病む人。
富む方にすがる貧しい人。
泉から飲む渇く人。
全能者のみ前に身を置く弱い人。
試練のうちにあって確かなのがれ場を求める人。
光を求める人。
まことの友を訪ねる友。
聖なる牧者に探し出された迷う小羊。
道を見いだすさまよう人。
知恵を見いだす愚かな人。
魂の花婿を見つける花嫁。
すべてを見いだす無である人。
慰め主を見いだす悩む人。

また、私たちの存在は、馬小屋を訪ねた羊飼いたち、シモンの宴会に赴いたマグダラのマリア、夜イエスのもとに来たニコデモのようです。

イエスとの出会いのなかの私たちの会話は、サマリアの女、ザアカイ、フィリポ、そして、すべての使徒たちとイエスとの間で交わされた聖なる会話の数々、特に地上でのご生涯の最後の一週間と復活後の会話のようです。

人は、神と人との仲介者であるイエスを訪ねます。

司祭であるイエス、贖いのいけにえ、世に来られるメシヤ、神のみことば、よい羊飼い、道・真理・生命(いのち)、世の救い主であるイエスを訪ねます。

小さな聖櫃のうちにあらゆる完全さのモデル。小さなホスチアのうちにすべてを創られたかた、在りて在るかたがおられます。このかたこそ天上の人々の喜び、天の御父の修道者、人生の旅路の糧、真の友、至上の善、そして永遠の幸福なのです。

聖体訪問の重要性

……聖体訪問は、私たちのあるじ、家族の一員、兄弟、救い主であるかたにささげる、ふさわしいこたえです。

イエス・キリストは信仰・道徳生活・祈りの師ですから、その学び舎に行く必要があります。

聖体訪問のなかでこそ、他のあらゆる祈りの場の実りを集め、熟させることができます。イエス・キリスト全体を生きるためにすぐれた方法です。

また、思春期を乗り越えて、キリストにおいておとなとなっていく、すぐれた方法です。「キリストがまことに私のうちに生きておられる」(ガラテア 2.20)というように、キリストにおいて私たちが 変容するための秘訣です。

イエスと御父との、またイエスと人類との関わりを感じとることです。
 堅忍の保証です。
 死に際しても穏やかでいられる確証です。「私は毎日イエスを訪問しにまいりました。みもとに行く今、こう確信しています。イエスは私を迎えてくださいます。ご自身の姿を見せ、明らかにされます。私は顔を合わせてイエスを見るのです。これまで、私はみ顔、精神、愛を探し求めてきました。この私を、遠ざけたりはなさらないでしょう。」

→ 聖体訪問の方法


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