神のしもべ ユスト高山右近 列福記念行事の記録
高山右近に見る"殉教" (溝部脩 名誉司教)
高山右近が列福されるその意味──
どうして殉教者なのかということが、その一番大事なことです。
証聖者として当初は申請されたのに、どうして今殉教者として申請されることになったのか。殉教者のほうが列福されやすいという単純な、ある意味で作為的な方法で列福を急いだからと、解釈される恐れもあります。
その実は、右近が殉教者であるということに意義があるのです。
殉教者としての高山右近は、特別な意味をもっています。
殉教者というと、生々しい処刑を想像しがちです。しかし右近の場合は、いくら望んでも死による処刑は叶いませんでした。
秀吉の宣教師追放令(1587年)の折、いつ殺されるか分からないまま、彼は殉教にあこがれました。
ヴァリニャーノ神父が再度日本を訪れたとき(1590年)、右近は同神父に、キリストに倣うため、殉教を望んでこの世を捨て修道院に入る希望を表しました。ヴァリニャーノ神父は、これは悪魔の誘惑として、その考えを捨てるように勧めたのでした。
日本26聖人殉教のときも、右近は殉教を切望しました。しかし、それは叶えられませんでした。
家康によって国外追放にあったときも、絶えず死の危険にさらされていたこともあり、右近はキリストのために喜んで死ぬことを覚悟していました。しかし、この度もマニラへの流刑ということで、死ぬことは叶いませんでした。
神は、彼の肉体が即座に死ぬということをお許しになりませんでした。キリストのために勇んで死ぬとの彼の想いを、無残にも何度も打ち崩したのです。
それは生きるも死ぬも、すべて神の手の中にあることを分からせるためでした。
これが分かったのは、マニラに流される前に、モレホン神父の指導で「霊躁」を長崎で行ったときでした。
実に「長い忍耐がいる殉教」(申請書)、このことばが右近の殉教にあてはまることばです。死のうと思っても死ねない殉教とでも申しましょう。
その代わりに長い年月、死ぬことを要求した殉教だったのです。
辿りついたのが、キリストへの信仰のために国を追われ、そこでやっと喜びのうちに自分の魂を神に返すことでした。長い殉教がやっと終わったのです。
殉教は、生も死もすべて神の手に任す生き方です。キリストに倣って自分を捧げつくす生き方です。
これは現在の日本教会に大きな示唆を投げかけています。
今は、キリストへの信仰のために殺されることはありません。しかし、キリストを信じた者は、毎日の生活の辛苦を喜んで耐えて生きることを誓っています。
毎日の生活の中で生きるも死ぬも、すべてを神に委ねる生き方です。
それこそ「長い忍耐がいる殉教」を私たちに要求しているのです。
神は、右近を通して、現在の日本教会が、教会の人として生きるべき姿を提供しています。
右近の列福は、世界の教会に、殉教とは何かを示唆する意義ある列福になりえます。