教会をたずねて
カトリック浅草教会(東京教区)
祭壇 |
聖櫃(せいひつ) |
十字架 |
聖堂内マリア像 |
十字架の道行 |
オルガン |
聖堂入り口 |
旧聖堂のステンドグラス |
聖堂正面 |
旧聖堂の聖パウロ像 |
ルルド |
鳥越きりしたん殉教碑 |
歴史と聖堂内部
カトリック浅草教会は、1877(明治10)年12月に、東京都内の2番目の教会(最初の教会は、1874年に建築された築地教会です)として、現在の位置に立てられました。
この地の宣教は、早く江戸時代にさかのぼります。
フランシスコ会のヘロニモ・デ・ヘスース神父は、マニラとの貿易を考えていた徳川家康から、貿易政策に協力することを条件に、江戸での宣教をゆるされました。ヘロニモ神父は、1599年、八丁堀に「ロザリオの元后聖マリア聖堂」を建て、江戸布教のきっかけをつくりました。
ヘロニモ神父のあと、同じフランシスコ会のルイス・ソテロ神父たちは、約13年間この聖堂を中心に東北、幾内方面にもおよぶ宣教活動を続けました。
1613年、ソテロ神父の留守の間に、江戸のキリシタン数名が捕らえられ、ロザリオの元后聖マリア聖堂も壊され、聖堂再建は許可されません。そこで、ソテロ神父は、江戸から離れた新開地浅草に、小さな聖堂とハンセン病の病院を建てました。しかし、1ヵ月ほどで、多くのキリシタンが捕らえられ、鳥越の牢に入れられたあと、鳥越刑場で27名が殉教し、多くの信徒が追放されました。
1876(明治9)年、浅草、下谷、本所にも信徒が増えはじめました。築地教会の助任司祭のラングレー神父は、この三地区に説教所を設け、巡回していました。
築地教会で受洗したトマ本多善右衛門は、浅草にも築地のような教会を建ててもらいたいと望みました。
しかし、築地の外国人居留地以外への教会建築の許可はまだ難しい状態でした。
1877年、本多氏は、学校を設立し、ラングレー神父をその外国人教師として許可を得ました。彼は、一軒の日本家屋を買い、私立 まい瑰(かい)学校を創立しました。
まい瑰とは、「ロザリオのバラ」のことで、学校は、1877年4月15日に祝別され、聖ポーロ小聖堂と命名されました。その一室では、この日40人の洗礼式が行われました。
ラングレー神父は、まい瑰学校に仮住まいし、宣教活動を行いました。現在の位置に移転した12月には、200名近い信徒がいました。その後、小伝馬町や本所にも巡回教会がつくられました。
- 行事:8月24日 1613年の鳥越川ほとりの殉教を記念する
- カトリック浅草教会(兼上野教会)Webサイト:http://www7b.biglobe.ne.jp/~asakusa-ueno-catholic-church/