教会をたずねて
カトリック本所教会(東京教区)
祭壇 |
聖櫃(せいひつ)と十字架 |
十字架 |
朗読台 |
祭壇横の聖ヨゼフ像 |
祭壇横のマリア像 |
聖フェリッペ・デ・ヘススの額 (日本26聖人) |
聖堂正面 |
聖ペトロ・バウチスタの額 (日本26聖人) |
十字架の道行 |
オルガン |
聖水入れ |
聖堂入り口のマリア像 |
聖堂入り口の 聖フランシスコ・ザビエル像 |
告解室 |
教会の門 |
聖堂入り口 |
歴史と聖堂内部
1876(明治9)年ごろ築地教会を司牧していたラングレー神父は、浅草、下谷、本所に説教所を設置して巡回していました。1879(明治12)年、浅草教会助任司祭となったフォリー神父は、本所・浅草地区に増え続ける信徒・求道者のために、日本家屋(本所教会現在地)を買い、その家屋を利用して本所教会開設にあたりました。1880(明治13)年4月11日に、フォリー神父によって建てられた小聖堂がミドン副司教によって祝別されました。
また、1879(明治12)年9月には、築地教会から男子孤児院が浅草教会へ移管され、児童が約50名住んでいました。
1885(明治18)年、本所教会は浅草教会から独立し、毎年受洗者も増え、活気に満ちていました。しかし、1905(明治38)年9月6日に、日露戦争講和条約に反対する人たちにより焼き討ちにあい、難を免れた教会敷地内の建物の二階を仮聖堂に改造して使用しました。
これまで本所教会はパリ外国宣教会によって司牧されていましたが、この事件後、この地で外国人による宣教の難しさを賢明に配慮したオズーフ司教は、1906(明治39)年、数少ない日本人司祭国定神父を第二代主任司祭として着任させました。
1907(明治40)年8月には、本所地区が大水害に見舞われ、被害に苦しむ信徒が続出しました。そんな中にもこの年、司祭館と信徒集会所の建築を開始し、1909(明治42)年には完成し、信徒集会所に仮聖堂の移転を挙行しました。
1909(明治42)年には、第二代主任が病気入院したため(12月11日に永眠)、10月に第三代主任司祭に本城神父が着任しました。
1910(明治43)年には、本所地区全域が大水害に見舞われ、さらに1917(大正6)年、大暴風雨被害を受けました。しかし、毎年毎年資金を蓄え続け、1919(大正8)年10月には、ギリシャ式天主堂の、献堂式がレイ大司教によって盛大に行われました。
1923(大正12)年9月1日、関東大震災によって、本所は再び天主堂を失いました。所属信徒の家屋223戸を焼失し、信徒の死者は約200名にのぼりました。
11月5日には本所教会敷地の整地工事が始まり、翌1924(大正13)年には、旧天主堂の北隣に仮聖堂建設。8月10日よりミサが始められ、12月には献堂式が行われました。
信徒の数は、その後も増え続け、手狭になった聖堂を1935(昭和10)年には改築、マレラ教皇使節を迎えて、11月1日に祝別式を行いました。
第二次世界大戦下の1942(昭和17)年には、旧聖堂正面玄関跡の南西に防火貯水槽が作られました。1943(昭和18)年2月には、本所教会にある金属類器具、鉄柵など、祭式に不可欠なものを除いて、すべて軍用資材として徴用されました。1944(昭和19)年10月に、本城神父は清瀬のベトレヘムの園に疎開されました。3月に叙階された新司祭が、翌4月に助任司祭として着任し、主任代理として教会内に留まり続けました。ところが1945(昭和20)年3月10日、東京大空襲による戦災で、聖堂は三度目の全焼となりました。主任代理はこの空襲で焼死、遺体は確認されませんでした。さらに、5月8日には、本城神父が逝去し、本所教会では1948(昭和23)年7月までミサは行われませんでした。
1948(昭和23)年3月、深堀神父が第四代主任司祭として、教区連盟出版部長の兼任で任命されました。7月30日に本所教会敷地内に、コンセント・ハウス(カマボコ兵舎)二棟をつなぎ合わせて仮聖堂とし、バラック建て司祭館も完成しました。翌1949(昭和24)年4月21日には、本所教会出身の下山神父が第五代主任司祭として着任し、以来長きに渡って司牧されました。
1949(昭和24)年4月に教会敷地内に本所白百合幼稚園が設立されました。
1951(昭和26)年には、聖堂が再建され現在に至っています。1979(昭和54)年元旦から1980年(昭和55年)2月3日までを本所教会創設100周年として記念しました。
(カトリック本所教会 Webサイトより)
- 行事:2月5日に近い日曜日 本所教会の守護者日本26聖人を記念する
- Webサイト:http://www.catholic-honjyo-church.org/