教会をたずねて
カトリック麻布教会(東京教区)
祭壇 |
聖櫃(せいひつ) |
聖櫃と聖人像 |
十字架 |
イエス像 |
聖堂のマリア像 |
十字架の道行 |
オルガン |
聖堂正面 |
聖堂入り口像 |
祭壇後方み心の ステンドグラス |
聖堂入り口 ステンドグラス |
朗読台 |
洗礼盤 |
小聖堂 |
庭のマリア像 |
聖堂外壁の イエス像 |
聖堂と六本木ヒルズ |
歴史と聖堂内部
1882(明治15)年5月、新橋、品川から青山間に住む信徒数の増加にともない、赤羽橋の日本家屋を改築し、築地教会の巡回教会が誕生しました。赤羽橋教会です。その地の町名から「松本町教会」と呼ばれたり、「赤羽根橋教会」と書かれたりしています。
1889(明治22)年、赤羽橋教会が手狭になり、当時の神田教会主任司祭で、神田教会から巡回していたパピノ神父よって、現在麻布教会がある地に土地を借り受け、和洋折衷の聖堂が建築されました。この聖堂は、建築家でもあったパピノ神父の設計でした。彼は、フランス語を教えながら活動をはじめました。
すでに麻布では、カナダ・メソジスト教派の宣教師が、伝道活動をはじめていました。また、同じメソジスト教派の女性宣教師によって、東洋英和女学校が設立され、大きな宣教の成果を上げつつありました。
1890年7月1日、聖堂は、オズーフ大司教によって荘厳に祝福されました。
1892年3月、レゼー神父が麻布教会主任となり、はじめて麻布教会司祭館に常住しました。彼は、神田教会の主任時代から、毎月2回発行していた雑誌『日本公教雑誌』(『公教学術雑誌』から1891年改題)の編集活動を、麻布に転任してからも続けていました。しかし、1893年ごろから麻布教会の活動は、東京六教会の中で最もおとなしく、目立たないものとなっていきました。
1892年11月、レゼー神父は甲府・松本地区に転任し、後任としてシュテル神父が赴任しましたが、1年足らずで麻布教会を去り、翌年帰国してトラピスト修道院に入りました。次のギュィヨン神父も、2年足らずで浜松・藤枝地区に転任になりました。
ギュィヨン神父転任には、次のような事情があったと思われます。
1879年、ローマ教皇庁によって、価値観が多様化し相対化する近代世界の危険を防止するため、教皇庁の権威をもって各地の教会を指導しようと、各布教地ごとに数名の司教による地方教会会議を開催するよう命令しました。日本でも、1890年、朝鮮の教皇代理も交えて長崎において、地方教会会議が行われた。司祭・伝道士、信徒・求道者の義務やその指導監督が細かく記された決議文は、1893年に公表され、地方教会の事情を考慮しない教皇庁の厳しい方針は、当時の日本の教会を大きく揺さぶりました。進歩的・活動的な司祭の多くは地方へ転任させられたようです。
また、1888年5月、麻布大隊区司令部が設置され、軍人が多く在住して、陸海軍の高級士官の邸宅が立ちはじめたうえに、独・仏・露の「三国干渉」で、これらの国に強く反発し、その敵意がフランス人宣教師にも向けられました。
このような中で、麻布教会の信徒たちは忍耐を養い、素朴な信仰生活と家庭的助け合いの精神を身につけていきました。
1911(明治44)年に、新聖堂が建設された。1929(昭和4)年には、信徒数の増加により、聖堂の増築を行いました。
しかし、1945(昭和20)年5月23日、6回目の東京大空襲によって、麻布教会本聖堂が全焼しました。麻布教会聖堂を聖心女学院の聖堂を借り移動しましたが、終戦と共にここも明け渡さなければならなくなったため、渋谷区緑ヶ丘の庄田勝彦邸を借り、そこで約2年間を過ごしました。次に枝光会の聖堂を借り、転々と間借り生活を行いました。
1948年、コンセット・ハウス仮聖堂(カマボコ兵舎)落成によって、3年ぶりに現在の地に戻ることができました。
現在の聖堂は、1952年4月28日、献堂式が行われました。
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