教会をたずねて
カトリック祇園教会(広島教区)
- 教会堂名:聖霊
- 主日のミサ:7:00、9:00、18:00
第1,第3日曜 14:30(スペイン語)
- 〒731-0138 広島市安佐南区祇園3-6-1
- TEL:082-874-5198 FAX:082-875-4505
内陣 |
祭壇 |
正面十字架 |
聖櫃(せいひつ) |
朗読台 |
十字架の道行き |
聖堂内 マリア像 |
聖堂内 ヨセフ像 |
聖水入れ |
パイプオルガン |
告解場 |
聖堂後方 |
子ども部屋 |
小聖堂 |
50周年の記念プレート |
庭のマリア像 |
清心幼稚園 |
歴史と聖堂内部
1938(昭和13)年長束にイエズス会の修練院が建てられました。その年、古市橋に朝鮮のカトリック信徒の金氏が、朝鮮の人たち100人くらいが入ることのできるバラックを建て、その一部が集会所となり、長束の修練院からシーファー神父が出張するようになりました。その小屋の入り口には、「カトリック教会」と書かれた看板が掲げられていました。
翌年から、長束の修道院では近隣の信徒のために、日曜のミサが行われるようになり、朝鮮から来た伝道師によって、可部地区への宣教も開始されました。
1940(昭和15)年には、幟町教会から独立して、主任司祭にシーファー神父が任命されました。この集会所は、1945(昭和20)年終戦直後に閉鎖となりました。
1945(昭和20)8月6日原爆の日、多くのイエズス会士たちも長束で被災しました。しかし、すぐに市街に出て、救護活動を行い、多くの被災者をリヤカーで長束の修練院に連れ帰りました。聖堂は臨時の救護所となり、かつて医学を学んだアルペ神父の陣頭指揮の下で、救護活動を行いました。
1945(昭和20)年11月、シーファー神父によって祇園教会の設立の準備がはじまりました。
1946(昭和21)年には、三菱重工広島製作所塀外の2階建て倉庫の一部を使って、ラウレス神父が司牧活動を開始しました。
翌年3月、この建物に福音の光修道会が入り、4月からは、原爆で親を失った幼い孤児を育てる活動をはじめ、10月にカトリックの戦災孤児院施設「光の園」となりました。1948(昭和23)年4月、「光の園」は児童福祉法によって認可され、基町1丁目に移転しました。
「光の園」が使用していた建物2階部分が改築されて小聖堂が造られ、長束から司祭が来てミサがささげられるようになりました。その後、司祭館が新設され、1949(昭和24)年6月30日長束修練院から小教区として完全に独立しました。
この年の春、福音の光修道会のシスターたちによって、清心幼稚園が開設さ、1951(昭和26)年には、祇園町初の公認幼稚園となりました。
1951(昭和26)年には、木造の鐘楼が完成し、聖堂の改築も進められました。
祇園町が広島市のベッドタウン化して人口が急増し、働くお母さんたちが増えていきました。そのため、保育所の要望が強くなり、1960(昭和30)年、清心保育園が開設されました。保育園は、1996(平成8)年に閉鎖されるまで、多くの幼児を育て、見守っていくことになりました。
1962(昭和37)年、ラウレンス神父の母国ドイツの莫大な浄財を基に、聖堂と鐘楼の建築がはじめられました。待望の新聖堂は、翌年に完成し、ラウレンス神父の誕生日である4月29日に、献堂祝別式が盛大の行われました。
さらに1964(昭和29)年には、信徒会館の建設準備が開始され、1階を幼稚園の教室、2階を信徒会館とする建物が11月に完成しました。
1971(昭和46)年、墓地が完成し、翌年には、祝別式が行われました。
1973(昭和48)年、清心幼稚園の園舎が新築されました。1984(昭和59)年には、墓地の拡張建設が行われました。
1984(昭和59)年、徳川幕府の迫害下殉教したキリシタンたちの殉教碑が、西区己斐東に建立されました。
1988(昭和63)年、聖堂献堂25周年の記念式典が行われ、献堂25周年のメモリアルプレートが聖堂に掲げられました。
1999(平成11)年6月、創立50周年を迎え、記念ミサが盛大に行われました。
- Webサイト:http://www.gionkyokai.jp/