教会をたずねて
カトリック川内教会(鹿児島教区)
内陣 |
祭壇 |
祭壇正面 壁画 |
聖櫃(せいひつ) |
朗読台 |
洗礼盤 |
聖堂正面 4福音記者 |
聖母子像 |
十字架の道行 |
十字架の道行 |
聖堂後方 |
前方から見た左手窓際 |
前方から見た右手窓際 |
オルガン |
告解室 |
聖堂入り口にある 教会の歴史 |
聖堂入り口にある十字架と 188人の殉教者地図 |
聖堂入り口にある レオ税所の絵 |
庭のキリシタン灯籠 |
聖堂の玄関前 にある石碑 |
納骨堂 |
皿山の教会跡 |
歴史と聖堂内部
長崎の西坂において日本26聖人が殉教してから5年後の1602(慶長7)年、マニラからドミニコ会のモラーレス神父たちが、嶋津義弘の招請に答えて下甑の長浜に上陸しました。
1605(慶長10)年には、甑島(手打)に教会を建てましたが、台風のために倒壊し、京泊に教会を再建することになりました。
1606(慶長13年)に、京泊にロザリオにささげられた教会と修道院が建築されました。
この教会で、1608(慶長13)年7月に、税所七右衛門は、レオの洗礼名をもらい受洗しました。しかし、その4カ月後の11月17日レオ七右衛門は薩摩の最初の殉教者となりました。
翌年、京泊のドミニコ会士たちは薩摩を追放されました。
彼らは、教会を解体し、レオ七右衛門も遺体と共に長崎へ退去しました。1614(慶長19)年には多数の宣教師が追マニラに放されました。モラーレス神父は追放は逃れましたが、1622(元和8)年西坂で、殉教しました。
再び川内の地でカトリック教会が宣教をはじめたのは、明治に入ってからでした。
メソジスト教会の牧師久保田義高師は、1885(明治18)年に、故郷皿山に満留八郎次氏を訪ねました。満留氏は、長崎でフェリエ神父に出会いカトリックに改宗していました。この2人が、川内教会の発展に尽力することになりました。
京泊の教会撤去から280年を経た1889(明治22)年、パリ外国宣教会のヨセフ・ベルナール・フェリエ神父は、天草の大江と崎津に教会を建てた後、阿久根に到着しました。彼は、ここで久保田師と出会い、皿山に到りました。
フェリエ神父は翌年には、皿山、向田、鹿児島に土地を購入し、皿山に石造りの聖堂を完成させました。この年の受洗者は140名でした。
1908(明治41)年、カベニャク神父によって向田に川内教会が落成されました。皿山教会は布教所として残され、1930(昭和5)年には改築が行われました。
1934(昭和9)年には、クリストロア修道会が、種子島を引き上げて川内教会に居住し、聖名女学校を開校。1940(昭和15)年、戦争のためカナダ人の修道女らはやむなく帰国し、邦人初の修道女会である純心聖母会が学校を引き継ぎ、翌年鹿児島純心高等女学校と改称しました。
1945(昭和20)年7月の空襲で、向田の教会は全焼しまし、1948(昭和23)年バラック建ての仮聖堂が建てられました。1951(昭和26)年、すでに売却されていた皿山の聖堂が解体されました。
翌年には、向田に仮聖堂が建てられて、バラックは司祭館となりました。
1956(昭和31)年、聖母幼稚園が開園され、翌年、国分寺町に教会墓地のための土地を購入して、皿山の土地も買い戻して、その翌年には2階建ての司祭館が建てられました。
1963(昭和38)年には、教会の敷地交換に伴い、向田町から若松町に教会が移転することになり、翌年には現教会の津に聖堂を移転して、聖母幼稚園も若松町の新園舎に移転しました。
1966(昭和41)年に、宮之城に土地を購入し、レオ七右衛門の最初の記念ミサが行われました。
またこの年、新聖堂が落成献堂式が行われました。
宮之城幼稚園と巡回教会が1967(昭和42)年に開設され、串木野教会が1971(昭和46)年に、入来教会が1972(昭和47)年に落成して、入来・宮之城地区は、入来小教区となりました。
甑島長浜に、ドミニコ会上陸危難碑が1979(昭和54)年に建立され、1985(昭和60)年には、レオ七右衛門の殉教祭が、鹿児島教区の行事として行われるようになりました。
1991(平成3)年には、宣教再開百周年記念ミサと祝賀会が行われ、記念誌が発行されました。
この年、聖堂の老朽化により、聖堂を建て直され、12月8日新聖堂の献堂式が行われました。
- Laudate キリシタンゆかりの地をたずねて 薩摩の殉教者 レオ税所七右衛門