教会をたずねて
カトリック中津教会(大分教区)
歴史と聖堂内部
中津のキリスト教の歴史は、1587(天正15)年、豊臣秀吉より黒田官兵衛(如水)が豊前12万石を与えられ居城を定め、山口からゴメス神父を招き、復活祭を祝ったことからはじまります。官兵衛は、その2年前に高山右近からシメオンの名前で受洗していました。しかし、その年、秀吉は宣教師追放令を発布しました。
1600(慶長5)年には、官兵衛の息子・長政の招きでイエズス会員が中津に住みつきましたが、関ヶ原の戦いで徳川方についた黒田家は、その功績により筑前52万石を与えられました。
1600(慶長5)年1月、代わって細川忠興が、中津城に入りました。
忠興の夫人はガラシャ夫人として知られる珠でしたが、その年の8月に小笠原秀清(少斎)の介錯で亡くなりました。
中津教会の初代主任神父のセスペデス神父は、ガラシャ夫人を信仰に導いた霊的指導者で、忠興とも非常に親しい関係でした。1602(慶長7)年の豊前の信者は3000人余でした。
1604(慶長9)年に、忠興の三男でガラシャ夫人の子・忠利が中津城主となり、1607(慶長11)年、中津に新聖堂が献堂されました。また、1609(慶長14)年には、イエズス会の修道院ができました。
キリスト教の弾圧が激しくなるなか、1612(慶長17)年4月に中津教会は閉められました。
徳川幕府の厳しい迫害によって、中津でも多くの殉教者を出しました。
1873(明治6)年に禁教令がとかれて、大分には1883(明治16)年フレー神父が赴任しました。
中津では、1887(明治20)年ごろからプロテスタントの宣教師が町を巡回しながら伝道をはじめていました。カトリック教会は、1887(明治20)年、パリ外国宣教会のベレール神父が最初の洗礼を行い、中津小教区を設立しました。1889(明治22)年には、島田神父が片端町の旧皇学校跡を借りて駐在所を設けました。
司祭たちは、三ノ丁や片端町に家を借りて活動していましたが、1899(明治32)年7月には、現在の教会の土地が買われ、聖ヨセフ教会が建てられました。
1927(昭和2)年からは、パリ外国宣教会に代わってサレジオ会が中津教会の司牧にあたるようになりました。
翌年には福岡教区が誕生し、大分、宮崎両県はサレジオ会にまかせられました。
1930(昭和5)年には、邦人司祭養成のために小神学校が開校されましたが、1933(昭和8)年に小神学校は宮崎に移転しました。
1935(昭和10)年、チマッチ神父が大分の教区長に任命されました。
1937(昭和12)年には、現在の聖堂が建築されました。
第2次世界大戦が勃発し、養成院の建物が強制破壊され、2人の神父たちは熊本県の栃ノ木温泉に収容されました。
戦争が終わり、1946(昭和21)年、アメリカ軍の助けによって、司祭館と養成院の建物が建築されました。しかし、11月に養成院は火事で全焼し、大貞地区に移ることとなりました。
1948(昭和23)年には、中津市内にカトリック書店「暁の星」ができました。
1951(昭和26)年、養成院は「ドン・ボスコ学園」として生まれ代わりました。
1977年(昭和52)年には、現在の祭壇と十字架の道行きをイタリアより購入し、1982(昭和57)年には、セッキ神父によって、聖堂内の全ての窓ガラス48枚が、イタリアから取り寄せられた色鮮やかなステンドグラスに改築されました。ステンドグラスの絵は、正面上窓に天使とマリアのお告げ、左側は聖書にまつわる聖家族と公的なしるしの場面、右側は中津、大分の宣教に関連する場面と聖マリアの出現、後方は聖ペトロ、ヨハネ、パウロ、サンタマリアの大聖堂などが描かれています。
1987(昭和62)年8月15日、中津小教区100年記念祭が盛大に行われました。