教会をたずねて
カトリック金沢教会(名古屋教区)
- 教会堂名:イエスのみ心
- 主日のミサ:8:30
10:00(12月を除き第5は国際)、17:00
土曜 18:00
- 〒920-0962 石川県金沢市広坂1丁目1-54
- TEL:076-264-2536 FAX:076-264-2577
聖堂前方 |
祭壇 |
祭壇正面 十字架 |
聖櫃(せいひつ) |
朗読台 |
聖堂正面 イエスの絵 |
聖堂内 聖母の絵 |
聖堂内 聖ヨセフの絵 |
聖堂内 み心のイエス像 |
聖堂内 テレジア像 |
ステンドグラス 降誕 |
ステンドグラス 復活 |
十字架の道行き |
聖水入れ |
オルガン |
パイプオルガン |
告白場 |
洗礼盤 |
聖堂後方 |
高山右近像 |
南坊石 |
庭のマリア像 |
歴史と聖堂内部
キリシタン大名ユスト高山右近は、豊臣秀吉の「伴天連追放令」によって領地と地位を失い、1588(天正16)年、前田利家の招きを受けてその客将となりました。ここに、金沢の教会の歴史ははじまります。
しかし、徳川幕府の「キリシタン追放令」によって、右近は26年過ごした金沢と別れ、京都から長崎を経てマニラへ追放されました。右近の追放後、激しい迫害の嵐が吹き荒れました。
1880(明治13)年、新潟市にパリ外国宣教会が居をかまえ、北陸の状況の視察を開始しするため伝道士を派遣しましたが、民衆の生活の中に浄土真宗の信仰が深く根を張っていたため、2年ほどで布教活動は中止されました。
1888(明治21)年4月、金沢市片街(現在の「香林坊」あたり)にパリ外国宣教会の宣教師によって日本天主公教会金沢講義所(カトリック金沢教会)が巡回教会としてスタートしました。この金沢講義所には、水田若吉伝道士が派遣されました。
翌年。クレマン神父が初代主任司祭に就任しました。クレマン神父は、金沢教会の他、長野県の松本教会と山梨県の甲府教会の司牧を兼任していました。
金沢教会は順調とは言えないまでも活動の輪を広げていきましたが、教会の真向かいに劇場ができたため、1896(明治29)年に現在の場所に移転しました。
1903(明治36)年、敷地内に学生寮「金沢育英塾」が建てられ、15、6名の学生が入寮しその中の3人が受洗しました。
1909(明治42)年、金沢教会はパリ外国宣教会から神言会に移管されました。
1911(明治44)年、病院開設のために聖霊会のシスターが来沢しました。
1912(明治45)年に新潟教区長館が金沢教会に設置され、ライネルス神父が教区長に就任しました。
翌年には、病院設置予定地を金沢市長町に購入し建築がはじめられ、1914(大正3)年8月に聖霊病院が落成しました。しかし、病院開設1カ月後に戦争となり、ドイツ系の資金でスタートした病院は資金難から苦しい船出となりました。
1919(大正8)年、教会敷地内に、5年制の聖ヨハネ予備神学校が設立されましたが、3年後には閉校となり、3年制の聖パウロ伝道学校となりました。1927(昭和2)年、校長であったヘルマン神父が病気のため伝道学校も閉校となりました。
1922(大正11)年2月には、名古屋知牧区が誕生し、ライネルス神父が新潟教区長との兼務で初代教区長となりました。
戦時下の日本では、外国人神父への監視、取り締まり、教会への介入が厳しくなっていきました。そのような中、1939(昭和14)年には聖霊病院創立25周年祝賀会、金沢教会50周年記念音楽祭が開催されました。
1944(昭和19)年には、聖霊病院は軍の命令により接収され大政翼賛会の指揮下に置かれ、石川県中央病院となりました。
1945(昭和20)年、太平洋戦争が終わり、11月には聖霊病院が復活し、ミサ聖祭が正規に行われ、クリスマス聖劇「高山右近」が上演されました。
1947(昭和22)年7月、「高山右近列福祈念祭」の野外ミサが、本多庭園で行われ、翌年には、本多家から「南坊石」が寄贈され、教会の前庭に置かれ記念野外ミサが行われました。
またこの年、野田山新墓地造成が開始されました。
1953(昭和28)年、神言会からカルメル会に司牧が交替されました。
1959(昭和34)年8月には、松岡司教の司式で新聖堂の献堂式が行われました。
1988年、金沢教会の創立100周年が祝われました。
- Webサイト:http://www.church-kanazawa.sakura.ne.jp/
- Laudate キリシタンゆかりの地をたずねて ユスト高山右近