教会をたずねて
カトリック今村教会(福岡教区)
聖堂前方 |
祭壇 |
祭壇正面 十字架 |
聖櫃(せいひつ) |
朗読台 |
聖堂正面 大天使ミカエル像 |
聖堂内 ペトロ像 |
聖堂内 パウロ像 |
聖堂内 み心のイエス像 |
聖堂内 テレジア像 |
聖堂内 聖母子像 |
聖堂内 ヨセフ像 |
ステンドグラス |
ステンドグラス |
十字架の道行き |
オルガン |
聖水入れ |
告解場 |
洗礼盤 |
天井 |
天井 |
聖堂後方 ミカエルの絵 |
聖堂後方 |
ルルド |
本田保神父像 |
納骨堂 |
教会の案内 |
歴史と聖堂内部
今村のキリシタン集団のはじまりは1587(天正15)年から1613(慶長18)年の間であると思われます。
1587年の秀吉の九州分割の時に、毛利秀包(ひでかね)は筑後の久留米領を賜りました。秀包も、妻マセンチヤ(大友宗麟の娘)も熱心なキリスト信者でした。この年、秀吉によって出された伴天連追放令にもかかわらず、秀包の庇護のもと領内には、七千人以上のキリシタンがいたと言われます。
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで、秀包は久留米の領地を失い、今村を含む筑後全体は田中吉政の支配下となりました。吉政もその後を継いだ息子・忠政もは、キリシタンに対して好意的であったため、家康の厳重な迫害まで、今村のキリシタンも平穏に信仰を守ることができました。
迫害の時代に入り、今村ではジョアン又右衛門という殉教者を出しています。
1867(慶応3)年のはじめに、浦上の4名の信徒により、今村でキリシタンの一大集団が発見され、ひそかに浦上の信徒たちの交流が行われるようになりました。
1873(明治6)年にキリスト教が解禁され、1879(明治12)年にはじめてコール神父が今村の信徒たちを司牧するために着任しました。
青木才八家の土蔵を、教会の代わりに使用しました。1881(明治14)年、ソーレ神父によって殉教者ジョアン又右衛門の墓があった地に木造の教会が建立されました。
1908(明治41)年、本田保神父により新聖堂の建築が計画されました。諸外国、特にドイツからの寄付、信徒たちの労働奉仕により、鉄川与助氏の施工で、2つの塔を持つロマネスク風様式のレンガ造りの現在の聖堂が、1913(大正2)年に完成しました。
2006(平成18)年3月3日、この聖堂は福岡県指定文化財に指定されました。