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どうしてシスターに?
シスター マリア・ルイザ 山本文子(1)
滅びる者には愚かなれども
1945年3月の空襲で神戸の町は灰燼(かいじん)に帰した。わたしが2年間通ったプロテスタントの教会の付属幼稚園も、教会堂もろとも焼け落ちてしまった。8月、わたしは敗戦直後の焼け跡に立った。白いペンキを塗った幼稚園の庭のまわりの柵に、枝をのばしたつるばらの緑がまぶしかった。焼け残った門柱の脇に、木の十字架が立っていた。在園時代からずっと見ていたはずのその十字架に、わたしはそのとき「はじめて気がついた。」そこには聖パウロの次の言葉が墨で記されていた。
十字架の言(ことば)は滅びるものには愚かなれども、救わるるわれらには神の力なり。
(コリントの教会への手紙一 1.18)
荒涼たる焦土に立ち、わたしは生まれてはじめて「永遠」を思った。
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心臓発作を起こして親友が急逝した。その友はカトリック信者だった。葬儀に参列するため、数名のクラスメートとともにはじめてカトリック教会の門をくぐった。教義も何もわからないまま、彼方へと友を見送りつつここが本来の伝統的なキリスト教会だと悟った。
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わたしはカトリック教会の門をたたいた。ドイツ人司祭の日本語はたどたどしく『公教要理』(今日のカトリック要理)の説明はよくわからなかった。何回めのことだっただろう。神について話された神父は旧約聖書を引用された。神ご自身の「自己紹介」として「われはみずから存在するものである」(出エジプト記3.14)という言葉であった。またもや一瞬のひらめきがわたしをとらえた。それは、わたしなりに神を理解した一瞬であった。
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躊躇(ちゅうちょ)することなく洗礼を受けた。御父・御子・聖霊の三位一体、キリストの受肉、受難、復活などについては何もわからなかったけれど。