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山本神父入門講座
21. 十二人の派遣とパンの奇跡
使徒に任命されてから、イエスと行動をともにしてきた十二人が、福音宣教のために遣わされるときがきた。 イエスは十二人に「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」あと(ルカ9章1節)使徒たちの心構えを話された。イエスは自分が「貧しい人に福音を告げ知らせるために」(ルカ4章18節) 遣わされたと考えておられたから、十二人もまた、貧しい人々の仲間であるように言われた。
「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋も、パンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」神に頼らずには、自分で何かする余裕は全くない。だから使徒たちも、よりよい宿を物色してはいけない。「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。」派遣された宣教者の唯一の関心事は、福音が受け入れられることである。 だから、「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証(あかし)として足についた埃(ほこり)を払い落としなさい。」とイエスは言われるのである。福音を受け入れないなら縁を切るというのである。
パンの増加の教会 モザイク Photo by Hiroko Abe
「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」(ルカ9章1-6節)。こうして彼らは「イエスの代わり」を務めたのである。 十二使徒が決定的に「イエスの代わり」を務めるのはイエスの昇天後である。イエスの昇天後、使徒たちの「イエスの代わり」を務める活動は、やがて教会へと発展し、教会を通して行われるようになる。そのように考えると、ここに描かれている十二使徒の派遣は、将来の準備として大切な意味を持っている。
やがて使徒たちは帰ってきて、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。派遣されたのだから報告は当然である。使徒たちに対するイエスの評価は書かれていないが、すべてイエスの望みどおりに行ったのであろう。休息と反省を兼ねてであろうか、「イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。」
しかし、群衆が後を追ってきた。休みどころではなくなった。そこで自分の都合は二の次にして、「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」(ルカ9章11節)。 これもまた、初めて派遣された使徒たちへの教訓だったのであろう。
日が傾きかけた。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」(ルカ9章12節) と十二人が言った。イエスは思いがけないことを言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」男だけ数えても五千人ほどいたというのにである。十二使徒は、泣きたくなったのではないだろうか。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません。このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」悲鳴である。十二人は率直に自分たちの困惑を伝えた。
イエスは、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。皆がそのように座ると、「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑(くず)を集めると、十二籠(かご)もあった。」(ルカ9章13-17節) 泣きそうだった弟子たちの目が丸くなった。パンを裂いて渡しても渡しても、パンは手の中に残った。自分は何をしているのだろう。彼らには分からなかった。しかし、十二使徒は、この出来事とパンの感触を生涯忘れることはなかった。
あの絶望的状況の中で、イエスは五千人以上の人たちに「あなたがたが食べ物を与えなさい」と言われ、このわたしが、わたしたちが、この手で食べ物を与えたのだ。最後の晩餐のあとでイエスは使徒たちに質問された。「財布も袋も履物(はきもの)も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えている(ルカ22章35節)。
パンの増加の教会 Photo by Hiroko Abe
わたしたちが頭で考えてできる解決ではない。見えない力で、イエスはそっとわたしたちを支えておられる。パンの増加は、不思議なできごとである。世界の食糧問題解決の妙手でないが、「主の祈り」の一節、「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。」とは深い関係がある。その深い意味は、イエスの死と復活をとおしてより明らかにされる。その時あらためて取り上げることにして、きょうは、絶望的な急場を救ってくださったイエスの姿を仰ぐことにしよう。