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シスター今道瑤子の聖書講座
聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子
第3回 マタイ1章1~17節 イエス・キリストの系図 1
福音史家マタイ
わたしがはじめて聖書を手にしたのは13歳の春のことでした。ジッドの『狭き門』を読み、そのタイトルが *1 マタイによる福音書7章13節によることを知って、好奇心を覚えたのです。心をときめかせてマタイによる福音書を開いたわたしでしたが、冒頭の系図に出ばなをくじかれました。わけのわからない名前の羅列にうんざりしたのです。
以来、16歳で終戦を迎えるまで、二度と聖書を手にすることはありませんでした。このわたしの二の舞をなさるかたがないよう、福音書の概説をするまえに、このマタイの冒頭にあるキリストの系図について、簡単な解説をさせていただきたいと思います。
マタイ福音書の1~2章には、系図に導入されてイエスの誕生物語が記されています。物語といいましたが、それは著者がここで、イエスの誕生の次第の歴史的事実を語ろうとしているのではない、ということをはっきりさせるためです。
イエスの誕生という厳然とした歴史的事実を踏まえながら、著者は <その事実の含む意味> を物語の形で表現しているのです。したがって、この物語は、3章以下で語られる福音のテーマの ダイジェスト版のようなものです。
たしかに、はじめて新約聖書を手にする人にとって、イエスの系図ほど 無味乾燥なテキストはないといえるでしょう。にもかかわらず、あえて系図の紹介に取り組むのは、このなかに新約聖書理解の前提となる 旧約聖書のたいせつなポイントが ちりばめられているからです。ごく簡略にでも、それらを見ておくことは、新約聖書を読み進むための助けとなります。
イエスと生活をともにし、親しくその言葉に耳を傾け、神の愛のあかしの業を目撃したイエスの直弟子たちでさえ、イエスの十字架につまずき、復活の主との出会いという信仰体験をするまでは、イエスがどのような意味で救い主(メシア=キリスト)であるかということも、イエスがわたしたちとともにおられる神(インマヌエル)であるということも、理解できませんでした。
復活された主はみずから弟子たちに現れ、約束された霊を与えて、旧約聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いてくださったのです。それによって、イエスが神から最終的に遣わされたキリスト(救い主)であることを悟った弟子たちは、復活された主の派遣を受け、もう一度聖書(旧約)にもどりながら、そこにイエスの意味を明らかにしたり、イエスについて語る助けとなる言葉を見いだしていったのでした。
新約聖書は、旧約聖書の言葉を借りずにはつづられなかったことを、わたしたちは知らなければなりません。新約聖書理解には、旧約聖書の初歩的知識が欠かせないのです。
ここでは、なるべく肩がこらないように聖書の引用もひかえながら、マタイの系図を読んで、説明したいと思います。
イエス・キリストの系図 (マタイ1.1~17)
▽ 称号
アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図(1.1)
イエスについて、アブラハムの子、ダビデの子、キリスト、という3つの称号が並べられています。
☆ アブラハムの子
アブラハム
アブラハムは、神に選ばれてイスラエルの民の始祖と立てられた人物です。しかし、彼が神の祝福を受けたのは、地上のすべての民に神の祝福が及ぶためでした。
イエスをアブラハムの子という称号で呼ぶとき マタイが強調しているのは、すべての人の救いの礎ということです。
神の救いはイエスによってすべての人に及ぼされたというのは、マタイ福音書の大きなテーマです。誕生物語には、東方から異邦人の占星術学者たちが星に導かれて幼子イエスを訪れ礼拝する場面がありますが、あれはまさに、イエスこそすべての人の祝福の基となる決定的なアブラハムの子であることを示しています。
☆ ダビデの子
ダビデ
ダビデの名はこの系図のなかに4回も見られ、強調されています。 ダビデは紀元1000年ごろ、神にそむいて退けられた先王サウルに 代わってイスラエルの王に立てられた人物です。
彼はイスラエルの諸部族を悩ましていた敵を制し、それまでイスラエル人が占領できなかった難攻不落の城塞都市エルサレムを落として 全イスラエルの都とし、はじめて安定した王国を実現しました。この王も聖書に登場する多くの人物に共通の弱さをもち、いくつかの大きな罪も犯しましたが、神の前にへりくだることを知る信仰の人でした。
神は一方的な恵みによって、預言者をとおしダビデにひとつの約束をしてくださいました。
「もし、あなたの後に続く王たちがわたしとの契約を守りさえすれば、あなたの家から王座につく者は絶えることがない。」しかし、現実の王たちは、主(イスラエルにご自分を顕してくださった唯一の神)にそむき、次項で見るように捕囚の憂き目をみることになります。しかし、預言者たちの働きによって、イスラエルには「いつかきっとダビデの子孫のなかから イスラエルを救う王が出る」という希望が芽生えました。
捕囚期の預言者エゼキエルは、主の言葉として次のように述べています。「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それはわが僕(しもべ)ダビデである」(エゼキエル書 34.23)。
「ダビデの子」という称号は 旧約聖書には見られません。いつとなく人びとは、先の期待される王のことを ダビデの子と呼ぶようになったものと思われます。
旧約聖書ではありませんが、紀元1世紀のユダヤの宗教詩「ソロモンの詩篇」のなかに、「主よ、ごらんください、あなたが予知なさっている時期に、あなたのしもべイスラエルに ダビデの子を君臨させてください」とあります。これをみれば、「末の日」に送られる救い主のことを「ダビデの子」と呼ぶ習わしが そのころにはすでに定着していたことがわかります。
イエスの時代のユダヤ人たちは、ローマの圧政から解放してくれるはずのダビデの血を引く王である救い主の出現を切望していました。イエスは どのような意味でダビデの子、すなわち約束された救い主であるかということは、マタイの幼年物語の特別なテーマなので、この称号は系図でも重要な役割を果たしています。
- *1 マタイによる福音書7章13節
- 狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。