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キリシタンゆかりの地をたずねて
薩摩の殉教者 レオ税所七右衛門
川内教会にあるレオ税所七右衛門の絵
税所七右衛門は、1569(永禄12)年宮崎県都城庄内に生まれました。
1596(慶長元年)年平佐奉行・北郷(「ほんごう」または「ホンガワ」とも言う)加賀守作左衞門三久の家臣で、北郷家が都城から平佐に移った際に同行しました。
七右衛門は、すでに結婚しており長男は17歳で次男は7歳、屋敷は平佐の城下町にありました。
1608(慶長13)年の春、七右衛門は友人の信者ジョアン小兵衞からキリストについて話を聞き、もっと詳しく知りたいと京泊教会の扉をたたきました。
北郷加賀守は、すでに家来が洗礼を受けることを禁じていました。
京泊教会跡
教理の勉強は、京泊教会と七右衛門の屋敷で行われました。フランシスコ・モラレス神父は、北郷殿は侍がキリシタンになることを好まないので信者になったら殺されるかもしれないので、よく考えるように言いましたが、七右衛門は固い信仰を持って洗礼を決意しました。
1608(慶長13)年7月22日、聖マリア・マグダレナの祝日にオルファネル神父から洗礼を受け、レオの霊名をいただきました。そして、ロザリオの聖母の前で感謝の祈りをささげました。彼の次男も、同じ年の10月にホセ・デ・サン・ハシントから洗礼を受け、ミゲルと呼ばれました。
レオ七右衛門が最後に京泊の教会を訪れたのは11月1日の諸聖人の祝日でした。
北郷加賀守の家来で4人が洗礼を受けていました。北郷殿は、すぐに信仰を棄てるように命じ、そのうちの1人で10月の末に洗礼を受けたばかりのジョウチンは、命令に従いましたが、他の3人は固く信仰を守りました。
11月14日、レオ七右衛門は取り調べを受け、その報告を受けた北郷殿は、レオが信仰を棄てないなら死刑にすることを決定した。友人や親族、北郷殿の家臣がレオに信仰を棄てるよう説得し、せめて表向きだけでも棄て北郷殿に従うように勧めましたが、彼の信仰はゆらぐことがありませんでした。
11月16日に、ホセ・デ・サン・ハシントは、シモン・ディアスの家に立ち寄った時、レオ七右衛門が親友パウロ吉右衛門と共に、シモンに別れを告げに訪れました。思いがけず神父に出会えたことをレオ七右衛門は喜び、共に祈り、ここ数日のことを話しました。レオ七右衛門は夜更けに家に帰りました。
翌朝、日が昇る前に北郷殿は、兵士たちをレオ七右衛門の家に送りました。兵士たちは、レオ七右衛門に切腹を勧めましたが、彼はキリシタンの教えに従い、それを断りました。
レオ七右衛門は、十字架に架けられることを望みましたが許されず、彼はそのかわりに屋敷前の十字路での刑を願いました。手にロザリオ、ふところには主の受難の絵を忍ばせ、十字路まで行き正座をし、静かに祈りました。そして、日の出にレオ七右衛門は頭を垂れて切られるために首を差し出しました。
レオ七右衛門が処刑された場所を、今は確定することができません。
レオ七右衛門の殉教の後、息子ミゲルは日向の高岡に追放されました。また、友人であったパウロ吉右衛門とその妻ルフィナ、4歳の子どもの一家は全財産を没収され、薩摩から追放されました。そして、もう1人の信者レオ・カイは自ら国を離れました。
日本の司教ドン・ルイス・セルケイラは、教皇パウロ5世にその殉教を知らせています。
カトリック川内教会
レオ七右衛門の遺体は、信者たちによってそっと京泊教会の敷地に埋葬されました。しかし翌年、薩摩に出された宣教師退去命令の際に、解体された教会の材木と共に、彼の遺骨も長崎に移されました。そして、レオ七右衛門の殉教を礎に教会が建築されました。
1614(慶長19)年10月、宣教師追放令によって、再びレオ七右衛門の遺骨は船に乗せられ、今度はマニラに送られましたが、1649年の地震によって失われました。
レオ七右衛門の殉教地薩摩川内市には、現在ロザリオの聖母にささげられた教会が建てられ、毎年11月に、「川内殉教祭」が行われています。
※レオ税所七右衛門殉教記念碑除幕式:
- 日時:2008年11月16日(日)
- 場所:カトリック川内教会