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大分・日出の殉教者 バルタザル加賀山半左衛門


日出藩成敗場跡地入口
日出藩成敗場跡地入口

加賀山半左衛門は、小倉の殉教者・ディエゴ加賀山隼人のいとこにあたります。
 半左衛門の父盛久が出家し加賀山家とは縁が切れていたため、半左衛門は隼人を兄として慕っていました。

1600(慶長5)年、細川忠興は中津に入府した際、家康よりその周辺の14の郡を与えられていました。忠興は小倉に移るときに、中津城には息子の忠利を、日出(ひじ)藩主として義弟・木下延俊(きのした のぶとし)を残しました。さらに、重臣加賀山隼人のいとこである半左衛門を木下延俊に与えました。

木下延俊は、半左衛門を、譜代家臣上位から4位におき、5百石を与えるという破格の処遇で迎え入れました。

半左衛門が、日出に赴任したとき、ここには教会もなく、司祭もいませんでした。妻ルイサは、小倉の隼人に手紙で、教会と司祭が必要であることを書き送りました。
 この手紙を受けて、グレゴリオ・デ・セスペデス神父は、1人の司祭を日出に派遣しました。

日出は、港町として古くから栄えた町で、「問(とい)」、「問職(といしょく)」と言う、通船の出入りや荷物に税を課す組織がありました。半左衛門はこの問の利権者たちをまとめ、税の所轄徴収を行う役を担っていました。
 半左衛門は、木下延俊からの深い信頼を受けていました。

 

日出殉教公園にある殉教碑
日出殉教公園にある殉教碑

 徳川幕府が禁教令を発布し、細川忠興がキリシタン迫害をはじめると、当然、義弟である木下延俊もこれに従いました。
 半左衛門一家は、地位を奪われ、監視をされながら苦しい生活を余儀なくされました。

 加賀山隼人が処刑された同じ日、1619年10月15日に半左衛門に死刑が宣告されました。

 1619年度のイエズス会「日本年報」にはこのようなエピソードが記されています。
 半左衛門は、役人からどこで処刑されることを最も望んでいるかを尋ねられ、半左衛門はいっさい彼らの思いどおりに任せると答えました。すると、娘テクラが「お父さん、あなたは盗みや恥ずべき行為で処刑されるのではありませんから、家から外に出る必要はありません。あなたは家の中で斬られてよいことですし、家族もそれを喜びとするでしょう」と言いました。しかし、半左衛門は「キリストは何の罪もないのに、戸外の公の刑場で2人の盗賊の間で処刑された。自分も主に倣いたい」と娘に答えました。

半左衛門は、妻と娘に足を洗ってもらい、着替えをし、ロウソクを携えて役人の方に進みました。すると、まだ幼いディエゴが、父に抱きつき、「自分も一緒に連れて行ってほしい」と涙を流しながら頼みました。

このとき、半左衛門は、ディエゴにも死刑の宣告が下されているとは知りませんでしたが、ディエゴを晴れ着に着替えさせ、随行することを許しました。

2人は、別々の道を通って刑場に向かいました。
 半左衛門は刑場である成敗場に着くと、役人たちに自分の信仰について語り「わたしは何の罪も犯した覚えはないから、どうかあなた方も、わたしの身の上を哀れまないでもらいたい。わたしはキリシタンの信仰という唯一の理由で殺されることを、光栄だと考える」と言いいました。

半左衛門は、跪座(きざ)し、斬首されました。
 ディエゴも、父の刑を確認した後、父に倣いひざまづき「イエス、マリア」の名を唱えて同じように斬られました。半左衛門は47歳、ディエゴは5歳でした。



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