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キリシタンゆかりの地をたずねて
長崎県 西彼杵郡時津町
時津港 日本26聖人上陸の地
京都から長崎へ護送された26人は、1596(慶長元)年2月4日午後、彼杵(そのぎ 現在の東彼杵町)に着きました。その後、舟で大村湾を横切って午後11時ごろにこの時津に到着して、寒さの中、船上で一夜を明かしました。
翌5日の早朝に上陸して、西坂に向かって歩きました。
1994(平成6)年10月、「日本二十六聖人上陸の地」と刻まれた記念碑が海に向かって建てられました。記念碑には、下記の言葉が刻まれています。
日本二十六聖人上陸の地
天正十五年(一五八七)六月。豊臣秀吉は筑前の筥崎(はこざき)で、九州各大名の封域を決めたが、その折りに長崎の地がイエズス会に寄進されているのを聞き激怒して、はじめてヤソ教(キリスト教)の布教を禁止した。
その後、慶長元年(一五九六)九月、イスパニヤ船サン=フェリペ号が土佐に漂着し、キリスト教の布教はその地を植民地化する前触れであると伝えた。
それを聞いた秀吉は、キリシタン禁令をさらに厳しくし、同年十一月に京都、大阪にいた宣教師・信者二十四人を捕え、耳をそぎ大阪、堺の町中を引き回した。
処刑は、長崎で行うことになった。信者が多いとされていたからであろう。
翌一五九七年一月九日、堺を出発させ、岡山で行を共にしたいという信者二人が加わった。
二十六人の一行は、首・両手をしばられ、山陽道から唐津をへて、二月四日彼杵に着いた。
小舟で大村湾を渡り、時津に着いたのは夜中の十一時頃であった。雪の夜の寒さ、それに飢え疲れにたえながら、船の中で一夜をすごし、翌二月五日(旧暦十二月十九日で慶長元年は未だ明けていない)早朝長崎に向い、午後五時刑場の西坂に着き十字架にかけられた。
その様子は今、西坂の壁面に刻まれている。
殉教者の内訳は、フランシスコ会宣教師六人、イエズス会のパウロ三木、信者十七人で、一八六二年聖人の列に加えられた。
時津町教育委員会
毎年2月5日には、この地点から西坂まで多くの人たちが、26聖人のたどった道を歩きます。
- 住所:長崎県西彼杵郡時津町浦郷
- アクセス:JR長崎駅から長崎バス 長崎県営バス長崎空港行きで44分 終点下車。
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