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日本26聖人殉教者


南蛮船
南蛮船

1596(慶長元)年10月、土佐の浦戸にスペインの商船サン・フェリッペ号が漂着しました。この船には、フランシスコ会の宣教師が乗っていました。

 すでにその3年前の1587(天正15)年7月、秀吉は「キリシタン禁教令」を発布していましたが、激しい迫害などは行われていませんでした。さらに秀吉は、「キリシタン禁教令」の数年後に来日したフランシスコ会のペトロ・バプチスタ神父には、神父が願うままに日本での宣教の許可を与え、修道院や教会建設のための土地まで提供しました。

 しかし秀吉は、サン・フェリッペ号のスペイン人たちを海賊として、積み荷を没収させ、日本国内にいるフランシスコ会の修道院や日本人のキリシタンたちに対して迫害をはじめました。

 最初に捕らえられたのは、熱心な信徒たちであったレオン・烏丸、兄のパウロ・茨木、伊勢出身のガブリエルなど5人の信徒でした。

京都 フランシスコの家
京都 フランシスコの家

1597(慶長2)年の正月には、バプチスタ神父をはじめサン・フェリッペ号に乗船していた修道士をはじめ5人の宣教師と12歳のルドビコ・茨木、14歳のトマス・小崎を含む7人の日本人信徒が捕らえられました。大阪の修道院からマルチノ神父と3人の日本人信徒が、またイエズス会の伝道士パウロ・三木たちも、彼らより先に捕らえられ、牢に入れられていました。

 捕らえられたキリシタンたちは、京の都の一条の辻に連れて行かれて耳たぶを切り落とされる耳切りの刑を受けた後、みせしめのために、都と大阪、堺の町を引きまわされました。
 彼らは、主を賛美し、みせしめを受けるたびにその信仰を深めていくようでした。

 この後、24人のキリシタンたちは、処刑されるために、厳冬の中長崎への約220里(880キロ)を旅することになります。彼らの通る沿道には、たくさんの見物人ができ、一行に石や雪を投げつけました。しかし、彼らの顔からほほえみが絶えることはありませんでした。

 下関から、船で九州に渡る際、ペトロ・助四郎とフランシスコ・吉の2人が一行に加わります。この2人は、都からずっと一行を助けながらついてきたキリシタンでした。彼らは、喜んで一行に加わりました。

西坂の丘

26人になった殉教者たちは、ゆるしの秘跡を受けるという願いも、金曜日に処刑を行って欲しいという願いもかなえられることなく、大村湾から小舟に乗せられました。時津の浦で、船を降ろされた一行は、一人ずつ馬に乗せられて、西坂の丘へと引き立てられていきました。

 はじめ役人たちは、他の罪人たちと同じ丘の裏手の中腹にある刑場で、殉教者たちを処刑する予定でした。しかし、ポルトガル人たちが「罪を犯していない殉教者たちが、罪人たちと同じ扱いを受けるのは不当だ」との抗議をしました。「南蛮人たちがことを起こすかもしれない」とのうわさを恐れた役人は、すぐに抗議を聞き入れ、見晴らしのいい丘の麦畑に刑場を移しました。

 西坂の丘に着いた殉教者たちは、それぞれ自分の十字架に近づいていきました。その場にいた人たちの叫び声、すすり泣き、うめき声があふれていました。

 一番小さなルドビコ・茨木は、自分の十字架がわからず役人にたずね、9番目に置かれた一番小さな十字架を指されると、まるで大好きなおもちゃでもあるかのように、その十字架にかじりつきました。  殉教者たちの手足は、鉄の輪で十字架にとめられました。
 最初にバプチスタ神父の十字架、そして次々と殉教者たちの十字架が立てられていきました。十字架の丘には、祈りの声と、賛美の歌が流れました。

 2人の執行人が、両わきから槍で胸を突くというむごい処刑でした。
 最後に処刑されたのはバプチスタ神父でした。25人の殉教を見て、神父が信仰を捨てるのではないかと考えた役人たちが、彼を最後にしたのでした。
 処刑は、2月5日午前10時ごろに終わったと言われています。

 役人たちの責任者であった寺沢半三郎が、処刑の後、肩を落とし、涙を流しながら丘を降りていく姿を、何人もの人が見たということです。

 日本26聖人の殉教者たちは、1862(文久元)年10月8日、教皇ピオ9世によって聖人にあげられました。

参考資料:『二十六の十字架』(女子パウロ会)


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