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キリシタンゆかりの地をたずねて
広瀬川の殉教者
カトリック元寺小路教会にある「キリシタン殉教碑」原型
仙台藩主、伊達政宗の時のことです。イエズス会のポルトガル人宣教師ディエゴ・カルワリオ神父(日本名:長崎悟郎衛門)は、東北地方から北海道にかけて熱心に宣教を続けていました。
カルワリオ神父は、岩手県水沢の後藤寿庵の領地・見分を足がかりとして宣教を続けていました。彼は、1624年(元和9年)、迫害の嵐が近づいていることを知り、寿庵を逃亡させ、自らも下颪江(しもおろしえ)に逃れました。下颪江の金山では、60人あまりのキリシタンが鉱山に身をやつし働いていました。その中の1人マチアス次兵衛の家に、カルワリオ神父は身を潜めたのです。
しかし、2月、仙台藩の捕手らによってカルワリオ神父は、鉱山の洞窟付近で発見され、信徒とともに捕らえられます。
彼らは、「キリシタン」と書かれた紙幟を背負わされて、大雪の中、村々を引き回されました。2月9日、歩けなくなった老人 アレクシオ・幸右衛門とドミニコ・道斉は、首をはねられました。
一行は水沢で、仙台から派遣された笹岡備後と橋本豊後に引き渡されました。2人は皆に、繰り返し信仰を捨てるようにすすめましたが、応じません。さらに、信徒たちをカルワリオ神父から引き離し、拷問によって棄教をすすめましたが、彼らの信仰は揺らぐことがありませんでした。
彼らが信仰を捨てることがないとわかった2人は、カルワリオ神父と7人のキリシタンたちを仙台へ護送しました。途中、3人のキリシタンたちが一行を待ち受け、自分たちも加えてくれるようにと願い出ました。1人は断られましたが、2人は加えられて護送されます。
仙台で牢に入れられたキリシタンたちは、1624年2月18日(元和9年の大晦日)午後2時ごろ、牢番によって、真冬の広瀬川の畔に連れて来られました。
そこには、水牢と言われる池がありました。
彼らは、着物を脱がされ、水牢の四方にある杭に水中に座わらなければならないように縛り付けられました。
3時間後に引き上げられてすぐに、2人は息絶えました。生き残った7人はさらに4日後の22日、再び水牢に入れられました。凍りはじめた水の中、カルワリオ神父は、信徒たちを励ましながら最後に息を引き取りました。それは夜の8時でした。
2月18日 水責めによる殉教者
マチアス・次兵衛
ジュリアーノ・次右衛門
2月22日 水責めによる殉教
マリアス・小山正太夫
レオ・佐藤今右衛門
アントニオ・高橋佐々衛門
アンドレア・野口二右衛門
マテオ・安間孫兵衛
マチアス・若杉太郎右衛門
ディエゴ・カルワリオ神父
苗字のある人びとは、武士であると思われます。その他は農民だったのでしょう。
毎年2月には、広瀬川大橋脇下、青葉区西公園内にあるキリシタン殉教碑前で「仙台キリシタン殉教祭」が行われます。