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新世紀ルーツへの巡礼
青年時代(2)
1) 友人の死
ヤコブは、病身の同級生アゴスチノ・ボレロ(Agostino Borello)と、とくに親しくしていました。ヤコブは生涯、この親友のことを忘れず、「自分の召命はボレロのおかげである。あの精神的な危機に、ボレロの祈りと手本が自分の支えとなった。」と言っていました。
ヤコブとアゴスチノは、お互いに勉学のこと、将来のことを語り合い、司祭になるまで祈り合い、助け合っていこうと約束したのでした。
しかし、1902年6月には、親友アゴスチノを失うことになります。キエザ神父は、葬儀のミサで美しい、感動的な追悼説教をしました。
親友アゴスチノの死去は、青年ヤコブには非常に感じるものがありました。
アゴスチノの死後、ヤコブはケラスコの実家に帰ってきましたが、もう以前の彼ではありませんでした。ヤコブにとって、アゴスチノの墓碑に書かれていることばは、彼の生涯に大きな影響をあたえました。ヤコブの残した手記、しかもパウロ会創設40周年のために書いた手記の中に、彼の他の大切な出来事とともにつづられているからです。
自分自身の救いのためにも、使徒職をいっそう実りあるものとするためにも、知・情・意のすべてをふくめた全人格を発展させる必要があるという考えがいつも根底に残っていた。彼が1904年、友人ボレロの墓にしるしたことばが示しているのは、このことである。
聖マルチノ教会
ヤコブは、親友アゴスチノの葬儀を終えてから、再びケラスコの実家に帰り、畑で働いたり家畜の世話をして、父や兄たちを手伝っていました。そして10月に、アルバ神学校に戻りました。
ヤコブは、親友アゴスチノの葬儀を終えてから、再びケラスコの実家に帰り、畑で働いたり家畜の世話をして、父や兄たちを手伝っていました。そして10月に、アルバ神学校に戻りました。
アルバ神学校の学生は多く、1906年には100人以上もいました。
ヤコブは司祭になる前の年(1906年)まで、7月から9月の夏休みには、ケラスコの実家に帰り、畑で働き、時間があれば読書をしていました。
家では神学生ということもあって、窓から聖マルチノ教会の見える二階の小さな部屋をもらい、勉強、読書、祈りなどをしていました。
父ミケレは、このころ、健康がすぐれず、長い時間は働けず、療養をしていましたが、1904年11月26日に亡くなりました。
2) カテドラル(司教座聖堂)において
カテドラルは、神学校のすぐ近くにあるゴシック様式の美しい教会です。
パウロ家族の精神と使命の決定的な出来事は、ここで起こりました。若きヤコブは、1900年12月31日と1901年1月1日を分かつあの有名な「夜」、ここで一条の光を受け、「みんな私のもとに来なさい」という主の招きを理解し、新しい使徒たちの群れと、新しい使命を深いレベルで直感したのです。この場所は、ヤコブにとり、パウロが主キリストと出会ったあの「ダマスコの道」(使徒行録 9章1-19節)であり、モーゼが主の山・シナイの山で神から契約を受けたあの「シナイの山」(出エジプト記 19章)であったのです。
彼は、この夜の体験を、「それ以来、こうした考えが、勉強、祈祷、養成の全過程を支配した。初めはおぼろげだった考えは、あきらかとなり、そして歳月を経るに従って具体的になっていった。自分の救いのためにも、使徒職をいっそう実り豊かなものにするためにも、全人格、つまり、知情意をあげての人格を円熟させることが必要だという考えが、いつも根底に残っていた。」と手記につづっています。
このとき、ヤコブはまだ神学生でした。
「19世紀と20世紀を分かつ夜」の体験は、彼のうちに消えることのないしるしを深く残し、彼の全生涯のための方向を示すものでした。
ヤコブは、自分のミッションが神から動かされ、神のみ手に導かれて行動したのだという深い自覚をもち、謙虚にそれを認め、自分の生涯にどのように神が介入されたのか、神が働かれたのか、神に導かれたものであったかを後に明かすのでした。
私は私の神を礼拝します。
神は初めであり、終わりであり、審判者です。
私は過去、現在、未来にかかわる神のご好意を感謝し、賛美します。
痛悔して、私の司祭職の報告をイエスにさしだそうとして、ここにおります。
私は知性と意志と心の内的回心を祈り求めます。
神が罪をきらわれるように私も罪をきらい、
イエス・キリストが果たされたように神の喜ばれることを果たすことにより、
私を、お望みどおりのものにしてくださいますように。
聖パウロによってキリストのうちに。
◆1--2 青年時代