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新世紀ルーツへの巡礼

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5) 日本初の聖パウロ会士・桑島神父へのインタビュー 2

桑島神父へのインタビューの続きをお送りします。


王子教会の学習会の子どもたち

家庭での聖書奉置
家庭での聖書奉置

聞き手:

神父様が洗礼を受けられてから、お母様の関係で聖パウロ会とのコンタクトがずっとおありだったと思います。神父様が、聖パウロ会に入会されるまでのプロセスを、東十条の教会の動きと共にお話しいただけますか。

桑島神父:

そのころ、私には修道会という考えはあまりありませんでした。つまり私は、神父たちは教会を持っていて、通常 教会活動をしていると思っていました。
教会の隣に私の家がありましたが、私は教会の中に住み込んだ形でした。

マルチェリーノ神父は、非常に事業家です。教会には壮年会、青年会、姉妹会、日曜学校などがあり、小学生のための学習塾もあり、私はそれを手伝っていました。さらにボーイスカウトもあり、それも手伝っていました。
私は、一緒に仕事をしていましたが、当時はマスコミの宣教などは何も見えていませんでした。

聞き手:

まだ何も見えなかった……?

桑島神父:

そのうちにはじまったのが小さな印刷所でした。
やはり神父たちは、自分たちの使命を目指していたので、許可を得て、すぐに小さな印刷所を造りました。
イタリアから印刷のことがわかるトラポリーニ修道士が来日し、またパガニーニ神父がインドから来日し、勉強をしながら印刷所の方を見るようになりました。

聞き手:

印刷所というのは、教会の敷地内に、ですか。

桑島神父:

はい。小さな印刷所を建てました。
そこに、一台の印刷機、そしてあの時代ですから、活字の並んだ棚もありました。
私たちも、その活字を拾う手伝いをしたこともありました。
はじめには教会の広報を出しました。そのうちに、だんだん自分たちの本来の出版物を考えてきて、小さな本を出すようになりました。

聞き手:

桑島神父様は、そのころ24時間、まったく神父様たちと一緒の生活をされていたのでしょうか。

桑島神父:

はい。そうですね。神父たちは、私をすでに聖パウロ会の志願者にと思っていたようですが、私としては、そのようには自覚していませんでした。
そして、そのころのマルチェリーノ神父のやり方かどうか知りませんが、特に私のことを責任をもって見るという神父はいませんでした。いろいろ忙しいことがありましたからね。
洗礼を受ける前に教理を教えてくれたのが、ベルテロ神父でした。彼が、私を見ると思っていたかもしれませんが、特に聖パウロ会の使命についてとか、それに向けての養成とかはありませんでした。

私は、戦争に行くつもりはなかったのです。というのも私はその前に病気をしましたから。
私は学生で、関口中神学校に通って、ラテン語の勉強などをしました。そのころ、新学年の前に茅場神父が札幌から上京して来たので、彼と二人で、関口の中神学校に通いました。

軍隊については、茅場神父より私が先に招集されました。私は以前、結核で休養しましたので、皆は軍隊に行ったら即日帰されるだろうと思っていました。 しかし、そのころの軍隊はだれでもいいということで、帰ることができなくて、1年6カ月ほどそこにいました。

その間に、イタリアの降伏がありました。そのため神父たちは、敵性国家の人間ということで、一時 軟禁状態にありました。

当時王子という所は一般的に軍需工場などが多く、王子教会は持続出来ないと考え、四谷の若葉町に引っ越して来ました。

若葉町は、カトリック信徒の方の家だったのですが、それを貸していただいて共同生活し、一方でマルチェリーノ神父は、東京教区と関わりを持つようになっていました。当時の麹町教会横にあったカトリック中央出版部に、たびたび顔を出し、関わりを深めて行きました。

戦争が激しくなってきますと、カトリック出版界が、政令によって統合されました。聖母の騎士は、印刷機を東京に送り印刷をし、一つになって仕事をすることになりました。マルチェリーノ神父は、そこの責任者となりました。

5月の大空襲で若葉町が焼け、カトリック中央出版部も焼けてしまいました。

その時、私は軍隊で羽田におりましたが、東京に家族のいる人は見舞いに行っていいという許可が出たので、四谷の状況を見にきました。

残っていたのは、ちょっとした蔵のようなものだけでした。みんなどこに行ったかわかりませんでした。その時、マルチェリーノ神父たちは、イエズス会の大島館というところにお世話になっていたそうです。それからすぐに神父たちは分散し、いろいろの方のお世話になったのです。


戦後間もなく立てられた若葉町仮修道院

初期の聖パウロ会会員
初期の聖パウロ会会員

終戦直後、中野の江古田に、ミッション会のフロジャック神父様がいらして、その教会のそばにはナザレトハウスがありました。そこが空いていたので、聖パウロ会の神父たちはそこに集まりました。
8月の終わりころ、茅場神父が軍隊から帰ってきました。
私は9月になってから帰り、彼と一緒に生活をはじめました。それが私にとって、ある意味で、将来の歩みの決定に近いようなものとなりました。
戦災でみんなばらばらになり、私の母は親戚がありましたので、そこに行っていました。私がそこにとどまっていたら、私の道も違っていたかもしれません。
しかし、母は再び神父たちの集まった江古田に移り、私もそこに行って生活をはじめたのです。
 江古田で、私たちの修練がはじまりました。茅場神父と私ともう1人の3人でした。修練期の途中で、若葉の方にバラックが出来ました。そこで、私たちは若葉に戻り、修練を続けることになりました。
修練期の終わりの大黙想の途中に、大風のため、母が亡くなりました。四谷の若葉町の入り口に近いところに、印刷所(2階建ての結構大きなものですが)を建てている時でした。屋根瓦を全部葺き終えた所でしたが、窓はまだ取り付けてありませんでした。その時、4月のはじめの大風が起こったのです。おそらく瓦とか中に持ち込んでいた活字の重さで、未完の建物は風に耐えられなくなって、倒れたのだと思います。母の住んでいた家はその建物のすぐ近くにあり、倒れた建物の下敷きになりました。

聞き手:

修練長はどなたでしたか?

桑島神父:

パガニーニ神父です。  彼はいろいろの務めを持っていました。出版関係の責任もしていました。
 そうこうしているうちに、四谷見附の土地を購入しました。アルベリオーネ神父が来日した時、あちこちを見て、「あの土地はいいから購入しなさい」と言われました。あの時代、アルベリオーネ神父の指示は彼らにとって絶対のものでした。ですから、一生懸命努力して購入したのです。1949年のことです。

聞き手:

アルベリオーネ神父が言われてから、すぐ実現されたのでしょうか。

桑島神父:

最初には何もなかったのです。

聞き手:

アルベリオーネ神父は、何もないところをごらんになって、ここがいいとおっしゃったのですね。

桑島神父:

その年の8月に中央出版社の建物ができたと記録にあります。

◆2--14 東洋へ


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