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新世紀ルーツへの巡礼

目次

3--3 聖パウロ女子修道会としてのスタート

2)プリマ・マエストラ テクラの誕生

一同の写真

向こう12年のために……

アルベリオーネ神父は、彼女たちが誓願を宣立した日、全員を台所に集め、― 他に適当な場所が場所がなかった ― 最初に短いあいさつをし、きっぱりとした態度でこう告げました。

「今日からマエストラ・テクラが、あなたたちの長上になります。任期は12年です。その後のことはあなたたちが自分で考えることになるでしょう。」

それは、1922年7月22日のことでした。

その日から、マエストラ・テクラは、公に「聖パウロの娘たち」(聖パウロ女子修道会)という新しい修道会の、第1のマエストラ、総長になったのです。

その日から、マエストラ・テクラは、公に「聖パウロの娘たち」(聖パウロ女子修道会)という新しい修道会の、第1のマエストラ、総長になったのです。

使徒パウロの弟子となった最初の女性は、聖女テクラでした。彼女は、最後まで使徒パウロの忠実な弟子でした。アルベリオーネ神父は、この名を、彼女に与えたのです。
 「第1の」、つまり彼女は*1みなに仕えるものとなったのです。

「パウロの娘」にとって総長(=会長)の呼び名は、プリマ(第一のという意味)・マエストラです。マエストラ・テクラは、この日から「プリマ・マエストラ テクラ」、通常は「プリマ・マエストラ」と呼ばれるようになりました。

 シニョリーナ・ボッフィ

アルベリオーネ神父にとって、マエストラ・テクラの選任については、長い祈りの後に、決定されたとはいえ、姉妹たちにとって、全く予期しない出来事だったのです。特に、シニョリーナ・ボッフィにとっては当然のことでしょう。彼女は、この時誓願を立て、マエストラ・マリア・パオリーナとなりました。彼女にとって、それは予想外のことでした。

彼女は、6年前、フランシスコ・キエザ神父の示唆で、当時まだ形もととのっていなかった小さな共同体の指導者に立てられたのですから。しかし、時がたつにつれ、アルベリオーネ神父と彼女の間の協調は、非常に難しいことが分かってきました。彼女には、創立者の考えを受け入れるために、自分の見解から離れるという準備はできていなかったようです。

シニョリーナ・ボッフィは、他のだれよりも年齢が多く、教養・教育も高かたったのですが、彼女はこの出来事を平和な心で受け止め、この小さな共同体の教師として留まることを受け入れました。しかし、後に彼女はここでの生活が自分の召命ではないとの確信を得、フランシスコの第三会に入り、その後マルセイユにある「パウラの聖フランシスコのいと小さき姉妹会」に移り、観想生活への道を選ぶことになります。

彼女は働き、祈り、財を提供することによって、新しいパウロ家族の歩みに貢献したのです。1926年ごろ、重い病が彼女を襲い、主は彼女をご自分のもとにお呼びになったのでした。

 マエストラ・テクラの「はい」

マエストラ・テクラ

ところで、プリマ・マエストラは、アルベリオーネ神父から名指しで呼ばれた時にどう感じていたのでしょうか。

最初の修道女の1人であるマエストラ・ブリジダはその時のことをこう言っています。

マエストラ・テクラは、泣きながら私にこうおっしゃいました。
『私に一番大きな責任が与えられました。でも、私にはできません。』
そして、感じているこのためらいを打ちあけるために、キエザ神父さまのところに行かれました。
神父様は、彼女にこう言われました。
『従い、そして信じなさい』と。

そして、マエストラ・テクラは、神に信頼して「はい」と承諾しました。

自らの無力をだれよりも感じていたマエストラ・テクラは、自分の従順と神への奉仕に対する献身の決意を新たにするよう促す内心のささやきを、面を伏せながら聴こうとする姿勢でした。

「わたしひとりでは、何もできません。
 でも主よ、あなたとともに、すべては可能です。」

この祈りは彼女の最も好きな祈りのひとつで、自分と各修道女のために、深い確信をこめてくりかえしていた祈りです。

アルべリオーネ神父は、彼女を「プリマ・マエストラ」と呼ばせ、彼女はアルべリオーネ神父の意向を知って、これも受け入れました。

プリマ・マエストラのこの「はい」は、その後に起こったあらゆる出来事、苦しみにも深い心の平和はかき乱されることは、決してありませんでした。

困難はその後も波のように、ある時は大波として、ある時には小さな波としてマエストラ・テクラを襲い、彼女はひとつづつその時を乗り越えていったのです。
 彼女は、実に第一のマエストラでした。

アルベリオーネ神父から与えられた新しい呼び名は、いつも彼女に自分の責任と、いたらなさとを感じさせ、それはすべてを計らってくださる神へと、高めさせる名でもあったのです。

プリマ・マエストラは、アルべリオーネ神父に最初にささげたあの「はい」によって生き、その後もこの「はい」を繰り返したのでした。1964年2月4日彼女のいのち尽きるまで。

彼女は、実にプリマ・マエストラとして修道会、いや、パウロ家族を導き、創立者アルベリオーネ神父の傍らにあった「聖女テクラ」を生きたもう一人の女性でした。

 再びスーザへ

プリマ・マエストラは、共同体をアルバでひとつにまとめるため、もう一度スーザを片づけに出かけていきました。その時点で『ヴァルスーザ』週刊新聞は、しっかりとスーザの地に定着していました。

マエストラ・テクラはスーザに戻り、そこの印刷と書店の活動を譲り渡す手続きをしました。

1923年3月23日のことでした。


注釈:

*1 みなに仕えるもの
 キリストが首席を争う弟子たちに言われた次の言葉は、キリスト者として人の自然の傾きを乗り越えるように、招かれている。つまり、第1の者は皆に使える者となること:
  あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
  いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
  人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、
  また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。
             (マタイによる福音書 20.16~28)

◆3--3 聖パウロ女子修道会としてのスタート


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