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聖パウロとわたし
聖パウロに導かれた召命
聖パウロ女子修道会 シスター佐藤 妙子
生きているのは、もはやわたしではなく、キリストがわたしのうちに生きておられるのです。
ガラテヤの信徒への手紙 2.20
この衝撃的なパウロの言葉に出会ったのは、23歳のとき、わたしがはじめてカトリック教会に行き始めたときでした。“キリスト”とは誰?“キリストがわたしのうちに生きておられる”と宣言するパウロとはどういう人? と興味がわき、パウロの手紙を読み始めました。一般にパウロの手紙は難しいと言われていますが、わたしにとってパウロは、キリストを知り、キリストを信じて生きる生活を、確信をもって教えてくれるよき師でした。
人間の弱さ、もろさ、罪深さに「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ローマ7:24)と告白するパウロに慰められ、「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます」(ローマ6:8)と宣言するパウロを通して、キリストの死と復活によって、この惨めなわたしも救われたのだ、という安心感と希望をもって歩み始める力をいただきました。
また、「愛は忍耐強く、情け深い。ねたまず、自慢せず、高ぶらない…」(1コリ 13)という愛の賛歌によって、“本物の愛”を知り、この“愛”をキリストに置き換えたとき「神は愛」というキリストの姿がとても身近に感じられました。
このように、パウロに導かれてキリストを知り、洗礼を受け、修道会に入ったのですが、この修道会の正式名がイタリー語で「Figlie di San Paolo」(パウロの娘)ということを知り、不思議な縁を感じました。今日までの歩みの中で、自分の弱さや無力さに打ちのめされたときも、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(2コリ 12.9)という言葉に幾たび救われたことでしょう。
「福音をあかしすることさえできれば、自分の命すら惜しいとは思わない」(使徒 20.24)と、最後にはローマで殉教したパウロ。教会が「パウロ年」を祝うこの年に、ペトロ岐部と187人殉教者が列福されることは、わたし自身キリストを証し、福音を生き、伝える生き方の根幹を見つめ直す恵みの時だと思っています。