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使徒パウロとわたし
聖パウロ女子修道会 シスター マリア・テレジア
わたしが最初にパウロに出会ったのは修道院に入ってまもない、志願者のときでした。
わたしよりも少し前に入会したTさんがパウロに夢中で、パウロの書簡に線を引きながら読んでいて、「ね、ね、○○というパウロの言葉はすごいよねー」云々とたびたび語ってくれ、パウロの書簡を知らなかったわたしも、それに刺激されパウロの書簡を読んでみようと思うようになりました。
まだ、聖書について勉強したわけでもなく、これから教えてもらうという時期でしたが、読み始めると、ピンピン心に響くものを感じ、Tさんといつも分かち合うようになりました。そして、いつのまにやらパウロというより、パウロの書簡が大好きになっていました。
使徒職実習期で支部に派遣されたとき、最初の使徒職は家庭訪問でした。
町や村をくまなく巡り歩いたイエスのように、パウロのように宣教したい、使徒言行録に書かれているようなパウロのように、パウロの心で1件1件を訪問したいと情熱に燃えていました。聖霊がパウロを押し出して派遣したように、聖霊がパウロを行く先々を導いたように、聖霊に導かれたいと燃えていました。そして、毎日毎日、使徒言行録とパウロの書簡を読み、聖霊に祈っていました。
修道院に帰ると、1日に出会った人びとをご聖体の前の祈りで主にささげ、その人たちがキリストに導かれるように祈り、困難があったり、はずかしめにあったりしたときには、「御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜んだ」使徒たちのような誇りを感じていました。
パウロの手紙を読むうちにパウロの祈り、何を祈り、どう祈るかにも魅力を感じ、「パウロによる祈り」という1冊のノートを作りました。修練長にそれを見せると励ましてくれたのでますます夢中になり、パウロが読んでいた聖書(旧約聖書)も読むようになりました。
聖パウロ女子修道会(日本語名称はそれを表していませんが)は、“Figlie di San Paolo(パウロの娘)”と呼ばれていることを知り、うれしくてうれしくて、パウロのように生きたい、パウロのようにキリストに、人びとに夢中になりたいと、いつのまにかわたしの心をパウロがしめるようになっていました。そんな中で創立者を学び、創立者の書に触れたときに、もう一人のパウロに出会うような気がしました。
有期誓願をローマで過ごし、聖パウロ会の霊性センターを設立したロアッタ神父からパウロについて学ぶ機会を与えられました。
終生誓願準備期には、ロアッタ師から毎日約3ヶ月指導を受け、「パウロづけ」と言えるくらいにパウロの書簡で黙想し、パウロについて勉強し、パウロに祈りました。
パウロの手紙から「パウロにおけるキリスト」というテーマで、ロアッタ師の指導で8日間の黙想をしたときに、なにか頭を打たれるような、いなずまのようなものがわたしの中に走り、ひれ伏したいような感じに襲われました。それは、何者かがわたしを「過ぎ越された」という感じでした。そのときから自分の中で主語が変わっているのに気づかされました。
当時、バチカン公会議後のゆれの時期をわたしたちの修道会も生きていて、わたしたち若手も創立者について、修道会が生きているさまざまなことを批判し、また批判の声を喜んで聞いていました。
(修道会を思ってという意識でしたが)内も外も、あばれまわって、終生誓願が許されないかもしれないと聞かされたときに、修道会がわたしを追い出す前に、自分から修道会を出てやると暴言を言っていたわたしはひれ伏して「この愛する修道会の中においてください、許可をいただくまで何年でも待ちます」と言えるまでに変えられていました。
その黙想の終わりにロアッタ師は、「人生においてどのような状況におかれても、戻る基点があることは大切なことです。神との対話のうちに深い基点『過越の神秘』をパウロからいつもくみ取りながら生きること。そうするなら、深いレベルでの回答がみつかるだろう。」と書いてくれました。今も大事にして、たびたび読み直しています。
このときはわたしが賜った大きなめぐみの中の一つですが、ことあるごとにこのときの体験に戻っては自分の「選び」を繰り返している、いや選び直しをさせていただいています。
マルティーニ枢機卿が「パウロがその生涯の最後の15分間に、自分の使徒職を回顧して再体験したときのまなざしをもって、彼の使徒職を映し出しながら、パウロと一緒に霊操をしたい」(『パウロの信仰告白』より)と書いていますが、わたしも同じ願いを持っています。
パウロがわたしを生んでくれた、わたしは「Figlie di San Paolo(パウロの娘)」。
父なるパウロ、創立者なるパウロが今生きていたら? との問いをし続けたいます。その語られることに耳を傾けパウロの娘(聖パウロ女子修道会会員)として生涯を閉じることができたらと願っています。
パウロの娘であることが特別の恵みである、あふれるばかりの恵みであると感じつつ堅忍の恵みを祈っています。