home>カレンダリオ>教会カレンダー

教会カレンダー

C年 聖霊降臨の主日

第1朗読 使徒言行録 2章1~11節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章8~17節

福音朗読 ヨハネによる福音書 14章15~16、23b~26節

復活節50日間の最終日です。
 復活の主日が日曜日で、50日目の今日も日曜日にあたります。聖霊降臨祭を祝う今日の日は、新約聖書において「五旬祭(ペンテコステ)」(使徒言行録 20.16)と呼ばれます。

今日で復活節は終わりになりますから、あの復活ろうそくは洗礼盤のあるところに移されます。そして、洗礼式のあるときに、灯がともされ、この灯から“洗礼のろうそくの灯”がとられます。

聖霊とは、キリストによって遣わされるものに「息づく力」です。主の復活の証人として派遣された弟子たちは、聖霊の息吹により、神のはかりしれないご計画を悟りました。弱い、罪深い人間の集まりであっても、その弱さを強さにかえ、一つに集めてくださる神の恵みを彼らは体験しました。神のはかりしれないご計画の体験は、やがて彼らの確信となり、この確信こそは、教会誕生の源、福音宣教の原動力となります。

教会はこの聖霊降臨祭の出来事を毎年記念することにより、私たちが聖霊をいただいていることを意識し、教会のいのちとその一致の源に立ち返ります。真の刷新の時でもあるのです。

今日、私たちは聖霊の働きによって、霊の実が見える教会共同体として成長しているかどうかを見、そうあるべく新たに求められている日でもあるのです。

聖霊降臨の主日を祝った教会は、過ぎ越しを中心とする二つの季節、四旬節と復活節を終え、翌日の月曜日から年間に入ります。

* * * * * *

第1朗読はABC年ともに、使徒言行録の最初の“聖霊の降臨”の出来事が朗読されます。

私たちは、この日の数々の不思議な出来事が実際にどのようなものであったかについて、知るよしもありませんが、今日の朗読を読んでいると、一人ひとりのうちに起こった衝撃の大きさが伝わってきます。これについての描写は、目に見えるようです。

主の言葉を守ってエルサレムにとどまっていた使徒たちは、聖霊に満たされて、神の言葉を語ることを体験します。「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」
 また、聖霊が使徒たちだけでなく、聞いている人々にも働いたのです。

「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た」とあります。

集まってきたあらゆる国の人々は、それぞれが自分の国の言葉で聞いているように理解できたのです。言葉が分かった、通じあった体験でした。聖霊には、真に人と人とを結ぶ働きがあるのです。人々にとって、この出来事は忘れられない信仰体験のときとなったのでした。

使徒たちの宣教活動の出発点となった聖霊降臨の出来事は、創世記にあるバベルの塔の話(創世記 11章参照)を思い起こさせませんか。あの時、人間の高ぶりによって、言葉と心が通じ合わなくなったバベルの物語ですが、この度はそれとは対照的に、キリストを信じる人々に、言葉の壁、民族の分裂を乗りこえて、一致に向かう聖霊の力強い働きが開始されます

今日、この日の出来事は、大きなメッセージを残してくれているのではないでしょうか。
 ダイナミックに、生き生きと語られている今日の第1朗読を味わい、そこから今日の私、私たちへのメッセージをくみ取りましょう。なにをあなたに語ってくれますか。

* * * * * *

第2朗読では、ABC年共通の朗読もありますが、C年のために任意の箇所(ローマ 8.8-17節)も用意されています。
 今日の朗読は、(1) 8~11、(2) 12~17節と分けて読むことができます。

(1) には、神の霊、霊という言葉が頻繁にあります。パウロは、「神の霊があなたがたの内に宿る」、一人ひとりの中に「“霊”は命となって」いる、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」と述べます。

(1) の部分はよく使用される方法ですが、交差配列法で書かれています。

a 8節
9節
肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、
あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。
b キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
b' 10節 キリストがあなたがたの内におられるならば、
体は罪によって死んでいても、
“霊”は義によって命となっています。
a' 11節 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、
あなたがたの内に宿っているなら、

キリストを死者の中から復活させた方は、
あなたがたの内に宿っているその霊によって、
あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

これを見るとよくわかるように、キリスト者とは、神の霊によって生きる者です。

(2) のはじめには、「肉に従って生きる」ことと「霊に従って生きる」ことの対比があり、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」と結びます。続いてパウロは、私たちは「神の子とする霊を受けたのです」と宣言します。

この霊の働きは、

* この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶ
* この霊こそは、わたしたちが神の子どもであることを証しする

この霊により、私たちは「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です」とパウロは言います。聖霊について語るパウロの言葉は、非常に豊かで、私たちを次々と中に引き込みます。なんと力強い希望を持たせてくれる言葉でしょうか。ゆっくりかみしめたいものです。

「アッバ、父よ」と呼ぶのは、私たちを神の子とする霊の働きであるとあらためて意識しながら、「主のいのり」を祈ってはいかがですか。

* * * * * *

今日の福音の箇所は、ヨハネ福音書の最後の晩餐(ばんさん)の席でイエスが語られた「告別説教」と呼ばれる長い説教の中から読まれます。イエスは最後の晩さんの席上で、「別の弁護者」、「真理の霊」の派遣を約束し、その働きを述べられました。

イエスが御父のもとに帰られた後、弟子たちのもとに送られる「別の弁護者」が、イエスに代わって弟子たちを導きます。この方は、弟子たちと共にあり、弟子たちの中におられる方です。

イエスの名によって父から派遣される“聖霊”は、イエスの話された言葉の真の意味を悟らせてくださる方です。この方は、“真理の霊”と呼ばれます。

この聖霊は現代に生きている私たちにも派遣されています。その聖霊がイエスが語られた言葉を私たちに思い起こさせ、私たちをイエスに従う道はどのような道なのかを導き、「助け手」となってくださいます。イエスが話してくださったこととは、イエスが愛されたようにお互いが愛し合うことです。私たちにこの愛が欠落してくる時に、私たちの一番深いところにある願い、「愛し合う」こと、このイエスの言葉を思い起こさせてくれるのです。

イエス・キリストを信じる人には天と地の両方に「弁護者」をいただき、父と子と共に住むことが許されていると思うと、力強く、慰め深く感じませんか。

ヨハネ福音書(14~16章)は、聖霊派遣の約束について、聖霊の働きについて詳しくのべています。
・ ヨハネ   14章 16~17節
・ 〃     26節
・ 〃   15章 26~27節
・ 〃   16章 7b~11節
・ 〃     12~15節

 この機会にゆっくり読んでみてはいかがでしょうか。
 そして、教会が大事にしてきた、「聖霊を求める祈り」を祈ってみませんか。

祈り

すべての人の父である神よ、
  きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、
  あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。
  聖霊を世界にあまねく注いでください。
  教会の誕生にあたって行われた宣教の働きが、
  今も信じる民を通して続けられ、
  豊かな実りをもたらしますように。
   集会祈願より

▲ページのトップへ

第1朗読 使徒言行録 2章1~11節

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、 信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。 そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 人々は驚き怪しんで言った。 「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。 また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

▲ページのトップへ

第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章8~17節

 (皆さん、)肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。 キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。 しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。 この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 もし子供であれば、相続人でもあります。 神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。 キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

▲ページのトップへ

福音朗読 ヨハネによる福音書 14章15~16、23b~26節

 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。) 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 わたしは父にお願いしよう。 父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。 わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。 あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、 わたしをお遣わしになった父のものである。
 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、 あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

▲ページのトップへ