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キリシタンゆかりの地をたずねて
天草の殉教者 アダム荒川
アダム荒川の殉教碑
アダム荒川は、1552(天文21)年ごろ、口之津と南有馬の間にある荒川(現在の「吉川」)で生まれました。荒川城は、有馬の日野江城から3里(約12キロ)ほど離れていました。
アダムが荒川と呼ばれたのは、この地の出身でかったからと思われます。
有馬家が島原半島に入ったときの最初の本城が荒川城だったと言われています。日野江城に移ったとき、荒川城はその出城となり、キリシタン時代には有馬晴信の兄弟アンドレス掃部(かもん)によって治められました。
アダムが、城主の一族であったか、あるいは家臣であったかわかりませんが、アダムが若いときに犯した過ちのため、アンドレス掃部はアダムを処刑しようとしました。しかし、有馬のイエズス会の院長のとりなしによって許されました。
以来アダムは、教会に仕えるようになりました。アダムはその後約30年にわたって、教会の受付や聖堂の係を勤めました。
天草の海
1591(天正19)年ごろアダムは志岐(しき)の教会で働いていたと思われます。
1600(慶長5)年、小西行長が京都で処刑された後、家康は天草を唐津の大名でもあった寺沢志摩守広高を天草の領主としました。寺沢は富岡城を築き、番代に川村四郎左衛門を置きました。四郎左衛門は、親切な人でキリシタンたちに好意的でした。
1614(慶長19)年、徳川幕府が禁教令を出すと、寺沢は四郎左衛門に、志岐の宣教師を長崎に連行するように命じました。
四郎左衛門は、2月半ばに、志岐にいたガルシア・ガルセス神父に24時間以内に志岐から出るように伝えました。翌日朝ガルセス神父は、寺沢の役人たちに囲まれ船で長崎に向かいました。出発前に、ガルセス神父は、アダムに教会の世話を託しました。
アダムは、幼児に洗礼を授け、病人を見舞い、弱くなる信者を励ますといった新しい役目に喜んで奉仕しました。
3月になると寺沢から再び知らせが届き、天草からキリシタンの信仰をなくすように四郎左衛門に命じました。同時に、殉教者を出さないようにとも命じました。それは、長崎の26聖人の経験で、殉教が信者たちを励ますために、最も効果的であることを知っていたからです。
四郎左衛門は、アダムをよく知り、彼が宣教師たちに代わりをつとめていること理解していました。そこで、アダムが棄教すれば、志岐の教会は長く続くことはないだろうと考えました。
年老いて弱そうなアダムを見て、役人たちは彼がすぐに棄教すると思いました。しかし、アダムは「自分はイエスが唯一の真の神であると信じているので、だれもこの信仰をやめさせることはできない」と答えました。
四郎左衛門は、アダムを夜中牢屋の柱に縛り、翌朝まで放置するように命じました。眠れない夜と苦しみで、アダムが考え直すと思ったのでした。
翌朝、アダムを引き出し、四郎左衛門は棄教するよう命じましたが、アダムの答えは変わりませんでした。
四郎左衛門は、アダムを裸にして町中を引きまわし、その後、町のある路地に1メートルぐらいの間隔で2本の角材を立て、その上にもう1本を渡して、その横木にアダムの腕を縛り、両足も地面にとどかないように2本の角材に縛りつけにし、9日間さらしものにしました。アダムは年老いていたため、夜の寒さと疲労で死んではいけないと、夜は柱からはずして、小屋に入れられました。
その後、四郎左衛門はアダムを60日間幽閉しました。それでも信仰を捨てないアダムに、今度は指を切り落とすと脅かしましたが、アダムは覚悟はできていると動じませんでした。怒った四郎左衛門は、アダムの指を切り落とすよう命じましたが、家臣たちに、罪のない老人にそのような酷い仕打ちをしては天罰があるかもしれないと忠告され、取りやめにしました。
アダム荒川の殉教地
ついに四郎左衛門は唐津におもむき、アダムが棄教しないことを告げました。そのとき寺沢は江戸に行って留守でしたが、家老たちは、棄教しないのであれば斬首するしかないと決め、その報を富岡に知らせました。
アダムはその決定を聞き、喜びの色を浮かべました。信者たちは、アダムの殉教の場に立ち会い、遺体を拾うための準備をしましたが、役人たちは処刑を密かに行うことを決め、6月4日の夕方、アダムを城に移しました。信者たちがついて行こうとしましたが、城に入ることは許されませんでした。
アダムはその夜、70余年の生涯を省み、殉教を前に心は静かでした。
町では信者たちを欺くために、5日後に処刑されるといううわさを流しましたが、信者たちはだまされませんでした。処刑を急ぐ役人たちは、まだ明けきれぬ中密かに、後手に綱を引かれアダムは刑場に連れて行かれました。城から下る山道はきびしいものでしたが、アダムが喜んで飛ぶように歩いたため、綱を引いていた役人が転んだほどでした。
刑場の場所に着くとアダムはひざまずき短い祈りをささげ、傍らにいた役人に、彼の1人息子をキリスト信者にして育てるように頼み、静かに首を差し出しました。
首を斬る役人の手元が狂い肩にあたりましたが、アダムは「イエス、マリア」と唱えて、もう一度斬られるのを待ちました。1614(慶長19)年6月5日の夜明けのことでした。
役人たちは、遺体を網に入れ大きな石と一緒に深い海に沈めました。
信者たちは、処刑の場所を見つけ、アダムの血で染まった土を持ち帰りました。
信者たちは、数日間にわたって、アダムの遺体を探しましたが、見つけることはできませんでした。
アダムの殉教は人びとを感動させ、弱さのゆえに信仰を捨てた人びとが、その勧めと模範によって信仰を取り戻しました。ある村では全村民がキリシタンであることを公言し、多数の村々がこれに従ったとマトス神父は、アダムの殉教の報告を結んでいます。